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余白・解釈・美

余白があるものは美しい。
余白の創造とはデザインの基礎原則でもありながら、奥深さを物語るものでもあるのです。

その奥深さは意匠だけにとどまるわけではありません。
むしろ僕が強調したい余白とは、人の創発可能性と自己解釈を最大化するための余白のデザインです。

以前、道具を創るための道具を創るという記事にて、風呂敷を一例として取り上げました。
これは適切な余白がデザインされている好例といえるでしょう。

適切な余白というものは、人の行動を誘発します。人の思考を促進します。
その状況におけるその個人がその対象と対峙することで、その関係性の中から生み出されるクリエイションを自然に引き起こすことができる力を秘めているのが余白だと思っています。

余白のデザインというのはつまるところ、Takramの渡邉さんがお話しているようなコンテクストデザインにおける強い文脈・弱い文脈に通ずるお話であり、具体⇔抽象、直線⇔補助線のバランスをどう取り置くか、ということだと思うのです。

人は皆、それぞれの認知フレームをもっています。情報を知覚し、対象を特定し、それらを統合して意味理解を形成するプロセスにおいて異なる認知フレームをもつために、人は異なる解釈を生み出します。
そしてその多義的な解釈こそが美しいのです。

以前、お茶の先生に、茶室にかける掛け軸のお話を伺いました。「松」の掛け軸をかけておこう。
しかしあなたは写実的な松をかけますか?どのような松をかけますか?と。
写実的な松とは裏腹に、「松」という文字のみの掛け軸をかけたらどうなるでしょうか?
ある人は祖母の家に生えている松を想起するかもしれません。別の方は地元・三保の松原の情景を思い描くかもしれません。
その多義的な解釈こそが美しいのです。と。

しかし難しいのは、そのバランスです。これが全てです。
余白が残されていなければ人はその情報を受動的に受け取るでしょう。
あなたが対象者に、「デザイン」について考えてみてもらいたいとします。

「デザインとはーーなのだ」という断定的な言い方には一切の余白が含まれません。
メッセージをクリアにすればするほど、そこに思考を挟むことができる可能性が潰えてしまいます。

「デザインとはラブレターのようなものだ」という比喩表現には、
「デザイン」と「ラブレター」との共通項を探るような内省的な思考を引き出す力のある表現です。
ここでは「ラブレター」というものにどう意味付けをするかは人々に委ねられています。
しかし、「ラブレター」というアナロジーは固定されています。

「デザインとは何か?」という疑問文には余白が多分に残されています。
だからこそデザインの理解を巡る論争がこれだけ引き起こされるわけです。
この問いをベースにして更に、
「あなたにとってデザインとは何か?」
「デザインのなせる役割とは何か?」
など問いを変えれば余白と制約も影響を受けます。

余白が大きければ大きいほど、人の自由な思考を促す一方で、
足場掛け(思考の立脚点)がないといけない状況や、メッセージを1つにとどめておきたい場合などで設計哲学・思想および目的に応じて適切な余白のデザインが必要になります。

どれが善く、どれが悪い、とは特にないのです。
が、多義的な解釈は美しい。これが最近のぼくの命題なのです。

適切な内省と熟考を促すことで、人は自己解釈を創造し、それを経験と対話を通して知(=Wisdom)に昇華する。その知的成長が人間にとっての歓びであり、善い生き方だというアリストテレスの考え方はとことん共感なのです。
参加型デザインの文脈を僕が探求していきたいのは、そうした知の創造プロセスに美を感じるからでもあるのです。

そして、そのために参加を自然な形で誘発し、思考を促すきっかけと仕掛けをどう講じていけばよいのか?
どうすれば自分の人生と社会の関わり方を、他者との対話を通じて内観する設計ができるのか?
それを考えていきたいわけです。

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