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社団法人真色 論文「半信半疑」 ※全文掲載 (拙書「山下眞史心理学医学哲学」より)

読んで字の如く、「半分信じて半分疑う」という意味であるが、ある本に、スペイン人の先生とその生徒の話が載っていた。生徒が提出したレポートに、「半信半疑」をスペイン語に訳してあった箇所を指し、「半分疑っていることがすでに信じるということとは矛盾しているよ」と。 

 よくよく考えてみればなるほど、と素直に考えさせられることである。外国語にはこれに当てはまるものはない、という。なぜならば元々約束、契約とは神とのものであり、決して疑うべきものではないからである。 

 日本には唯一神を信仰するものはすくなく、あるといえば戦時中に天皇が神として崇められていたくらいである。当時メディアも発達していたわけでもなく、実際に天皇の姿を見たものは少なかっただろう。キリスト、アラー、マホメットにしてももちろんのこと、現在実際には存在していない。そういう意味では、天皇を神として崇めることも難しくはなかったのだろう。 

 現在はどうか?アメリカ軍部による天皇の人間宣言により、天皇は本来の人間に戻った。三島由紀夫のようにこの事実を嘆いたものもいただろう。では他の国々、民族における神はといえばどうであろうか。それは今もって、いや未来永劫健在

・・である。ここには大きな違いがあるのではないだろうか? 

 人間は弱いものである、そういうような言葉が簡単に使われているような気がする。「自分は弱い」という言葉を使っている間は、到底自分の弱さを受け入れることはできないであろう。 

 歌に始まり、小説、テレビ番組など道徳的なものが増えてきたような気がする。現実とのギャップを埋め合わせる術も教えず、ただ道徳を訴えるのはいかがなものか。ますます、自分の弱さを受け入れることの出来ないものが増えてゆくだろう。

 自分を信じられなければ他人など信用できるわけがない。人間関係の希薄さに拍車がかかる用件ばかりそろっている。決して裏切らない、言うは安し行うは難し、である。 

 かと言って、信じなければ到底人間関係など築くことはできない。ではどうすればよいか。それは「半信半疑」である。絶対神のいない日本人が作り出した、苦肉の策ではないだろうか。 

 人間は絶対ではない。自分の思いと反して裏切ってしまうこともある。しかし、そんなことを言っていては社会生活がなりたたない。だからその現実を受け入れつつ生活してきた。 

 しかし大戦の惨敗から資本主義の導入、おおまかに物事の合理化の推進が行われてきた。アメリカ崇拝にも似た右ならえ、いや後ろに整列的な外交姿勢。さすがに神様までは輸入できなかったが、神との契約という概念の上に立つ資本主義が、神の概念のない日本でうまく根付くわけがない。いや、工夫は出来たはずだ。実際独自のものに成ってしまった、銀行はつぶれないなどをはじめ、強いものは救われるといった一見合理的なものに。 

 そこに加えて「個人の幸福の追求の自由」というものの側面だけが、取り入れられてしまったような状況だ。当然なれない水を飲んでしまっては腹が下るのもしかたがない。 

 我々は風土を通して個人的、社会的に「かかわり」に入り込んでゆく、とは和辻哲郎の言葉だ。ことに人間関係においては、世界でも特徴的な気候をもつ日本において独自のものが少なくない。 中国における家族制度ともまた違った特徴がある。和辻哲郎の説によれば本来和の中に自分を見出す民族であった日本人である。無意識の中でバランスを失ってもがいているのだろう。…」 

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二十四歳の時に書いた随筆です。ここで終わっています。今から書き直すにしても、もう少し時間が欲しいところです。

参考図書:拙書「たいよう十七」より 「半信半疑」

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