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タイガースと私

前々からnoteやってみようと思いつつ長い時間が経ってしまった。
僕の大好きなタイガースが18年ぶりにリーグを制覇し、そして38年ぶりに日本シリーズを勝って日本一となった。そろそろようやく興奮も落ち着いてきたので、この記念すべきタイミングでnoteに書き記そうと思う。

今回の正直な感想。
死ぬほど嬉しかったっす笑
今日は僕とタイガースの歴史というか、これまでの関係性について書いて行こうと思う。後から思い出したことあったらどんどん書き足します。

38年前は中学1年生。このときはリーグ優勝は21年ぶりで、日本シリーズも西武に勝って日本一になったけど、個人的にはセリーグの優勝で燃え尽きてしまって、正直日本シリーズを制したときはもちろんめちゃ嬉しかったけど、なんとなく日本一はオマケのような感覚だったかな。ぶっちゃけ。

僕が阪神ファンになったきっかけ、はっきり憶えている。
小学校の低学年のとき、地域で、自然豊かなところで写生大会(絵を描くやつね)をする催しがあり、日射病予防的な意味合いで帽子をかぶってこいとの連絡があった。帽子らしい帽子を持っていなかった僕は、地元の商店街の帽子屋に行ってどれにしようかと眺めていたところ、帽子屋のおっさんが、
「君は大阪の子ぉなんやからこれかぶっとき。」
といって、黄色と黒の野球帽を僕に手渡した。

タイガースの存在はもちろん知ってたが、特によく観ていたわけでもなかった立ち位置からこの帽子を手にしたことにより、タイガースってどんなチームなんだろう?と少しずつ興味を持つようになり、日を追うごとにどんどんその魅力にぐいぐいと引き込まれていった。

気づけば僕は、家でテレビの前で応援するときもハッピと帽子を着用し、普通に大きな声で選手それぞれの応援歌と六甲おろしを歌う少年になっていた。ちなみに父は、東京から大阪へ引っ越すタイミングで、生きていくために阪神ファンとなり、母は巨人ファン。姉はイケメンの選手がいる球団のファンだった。自宅が阪神沿線だったこともあり、阪神タイガース子供の会の会員証を握りしめよく甲子園も行った。当時の読売巨人軍へのヤジ応援のフレーズは今でもよく憶えている。江川氏を筆頭に、巨人のユニフォーム着てる人間はとにかく悪い奴だと教えられた。

だけどこの頃の阪神は、出だしはいつも好調で優勝候補の一角に上げられてたがだいたいゴールデンウィークまで。8月の、甲子園を高校球児に明け渡すころの死のロードが終わるころにはほぼ順位は真ん中から下の方。ダメ虎、などと呼ばれてた。

後に掛布さんは、85年は守備のチームだった、とは仰ってましたが、85年はまーースタメンの端から端まで皆さんよう打ちました。30本以上打った人が4人。今年のチームでは考えられません。

バッコバコ打ちまくって迎えた10月16日水曜日。この日神宮でのヤクルト戦で、引き分け以上で21年ぶりの優勝が決まります。水曜日は塾だったのですが、中学1年のMasa少年は巨人ファンの母ではなく阪神ファンの父をまず落としにかかる。

「なあなあお父さん、今日な、塾休んだらあかんかなあ?だって今日阪神優勝決まるかもしれへんやろ??」

ふと横を見ると、鬼のような形相の母が僕を睨みつけてこう言う。
「あかんそんなもん!!!高い月謝払てんのに何で野球のために休まなあかんねん!!!」

すると父がゆっくりと言葉を吐き出した。
「Masa、お前がこの先の人生でな、あと何回阪神の優勝を見れるかわかれへん。しかも優勝の瞬間を見られるなんて、そんな幸せなことはないぞ。ええから塾なんか休め!でここでお父さんと一緒にテレビで応援するぞ!!!」

後にも先にも父のことをこんなにカッコいいと思った瞬間はありませんでした。そして無事、植草アナの実況で、最後の中西投手のピッチャーゴロを見届けることができました!

その後、バースが去り、掛布が去り、不振の岡田がトレードに出され、もう崖から転げ落ちるように勝てなくなってきた。最下位が何年続いたかなんて憶えていたくもなかった。

阪神優勝から数年後の高校3年の時、少年野球のチームメイトだった友人が春の甲子園大会で優勝を成し遂げた。決勝でホームランまで打ちやがった。そこで決めた。もしこいつがドラフトでどこかのチームから指名されたら、そのチームのファンになろう。でも結局、大学のときも社会人でも彼が指名されることはなかった。彼は今大阪で、後進の指導者として活躍している。
結果、どれだけ勝てなくても阪神を応援し続け、ある種の忍耐力というか、チームを愛するとはどういうことなのかということの基礎の部分がこの頃養われていったんではないかと推測する。

1992年、この頃住んでいた北海道で、あの八木の幻のホームランを経験する。幸運にも、北海道にいるにも関わらず僕は、東京出身の熱狂的阪神ファンの先輩と知り合えて、まだネットも携帯もない時代でかつTV中継もほとんどない状態だったが、夜のニュースや翌日のスポーツ紙で彼と共に一喜一憂し、道頓堀までは行けないので、飛び込むところを近くの小さな川に定め、その瞬間を待っていたが、その日が来ることはなかった。

この頃からいわゆる暗黒時代という出口の見えない闇に突入する。社会人になって池袋のブラック企業に勤めだして家でテレビを観る時間もなかった僕は、携帯サイトと朝のスポーツ紙だけでしか阪神の情報を得ることができなかったが、得られる情報も全く華々しいものではなかった。PLとやったら絶対負けるとか、次の監督は箕島の尾藤さんに頼もうとか言われ放題。実際たけし軍団との試合には負けてたし。新人ドラフトで注目選手に打診しても、阪神さん指名しないでくださいなどと言われたとか。そんな中、新庄亀山のプレーは見ててすがすがしくさせてくれたし、坪井が出てきたときは本当にわくわくした。藪や川尻ももっと打線の援護があれば、とか考えるのも止めにした。この頃阪神のマッチと呼ばれた球団OB、池田親興さんと友人の結婚式で遭遇、酒を酌み交わす。Masa大興奮。

99年からはノムさんが来てくれた。あの弱かったヤクルトを何度も優勝に導いた知将を迎え、就任当時は関西の経済がV字回復したとまで言われるほど、活気があふれだした。大阪に戻っていた僕は、当時の盛り上がりぶりをよーく憶えている。ただフロントなどとのコミュニケーションがうまく取れていなかったようで、ノムさんの要望が球団にすんなり聞かれていなかったような空気だった。そうしているうちにマスコミとの関係もギクシャクしだして、それに伴ってチームの成績も降下。結果3年連続最下位だった。ただこの時に獲得した若手選手たちが、次の監督のときに花が開いていく。

そう。星野さんだ。もうぐいぐいと引っ張る力強い求心力で、今までの錆びついたフロントの体制までもひっくり返す勢いで、チーム内外に喝を入れてくれた。就任当初、村山さんの墓前にあいさつまで行ってくれて、僕らの心をがっちり掴んでくれた。ノムさんの頃のF1セブンがグランドを駆け回り躍動。職場の専務に、体調が悪くて休むと言って甲子園へ行くも、サンテレビにインタビューされ放映され、翌日ウソがばれて大目玉を食らったのもこの頃。H専務すみませんでした。

そして2003年ですよ。幸運にも僕は、優勝を決めた(デーゲームの後でヤクルトの結果を待ってた)日、レフトスタンドでその瞬間を見ていました。心の底からこんなにベイスターズを応援したのも初めての経験でした。星野さんの「あ~しんどかった」は一生忘れません。星野監督には本当に感謝しかなかった。チームの空気をがらっと換えてくれた。この頃僕も仕事で部下ができ始めたが、こういう上司を目指そうと思ったことを憶えている。

内野守備コーチを務めていた岡田さんが監督となる。星野さんは自分の体調のことをある程度察していて、自分の後のことを考えて、岡田さんをかなり目にかけていたと聞く。この時期僕は仕事の都合で北陸へ移る。北陸シリーズで阪神が来たときは嬉しかったなあ。試合が行われている時間帯に僕も仕事をしていたので、結果を観るのはいつも深夜だった。サンテレビもない。応援する環境として厳しく、2005年の優勝も、もちろん死ぬほど嬉しかったけど、優勝に貢献するほどは応援できてなかったと思う。ただあの、めちゃくちゃしたれと啖呵をきった中日戦。何度も動画を観てますが、球史に残る大一番を制した岡田さんを、そしてあのときのメンバーを僕はタイガースファンの1人として心から誇りに思っています。そして岡田さんはやはり実力者で、辞任する2008年まで毎年優勝争いを演じてくれた。またこの第一次岡田政権中、Masaは1年ほど英語を勉強する予定で、渡米を決断する。阪神タイガースが村上タイガース、阪急タイガースになるんじゃないかとひやひやしたのもこの頃。

渡米直後は英語で生活するのに必死で、タイガースの結果は気にしてはいたものの当時はネット中継も今ほど充実してなかったし、何より時差でリアルタイムを追うことは非常に難しかった。2009年、LA近郊で偶然お会いした城島選手と飲む機会があり、来年阪神来てくださいよ~と言ったらほんまに阪神に入団したのには驚いた。2011年頃かな、偶然巨人戦の中継を観る機会があり、数年ぶりに観たタイガース、赤星が解説だったりと驚きが多くそしてとても新鮮に感じたことを憶えている。

日本プロ野球が発足80周年記念イベントとして、ドジャーススタジアムとエンジェルススタジアムで2014年の開幕試合として阪神巨人戦を1試合ずつ行うという企画が持ち上がった。実現していたら僕は両球場で焼きそばの売り子でもしていただろう。この年のオフ、鳥谷のFA先の候補としてパドレスが上がっていて、もしトリがサンディエゴに来てたら完全にパドレスファンになっていた。

2015年、懇意にしていたYソースのY会長の講演のゲストとして、金本氏がLAに来られた。2002年に星野さんに口説かれて、星野さんと共にタイガースを変えて下さった個人的にも大大尊敬しているお方。個人的な意見ですが、金本さんが来ていなかったら阪神の低迷期はもっともっと長く続いていたと思う。金本さんにじかにお会いして改めて、男が男に惚れるとはこういう人を指すと思った。背番号6は僕が知るだけで藤田平氏や和田豊氏などそうそうたる顔ぶれがおりますが、僕は金本さんの6番を永久欠番にしてもらいたいと強く思っています。この頃僕はすでにアメリカの永住権は取得していたものの、仕事でもプライベートでも試練の真っ最中。日本にも帰るに帰れず、もどかしい日々を過ごしていましたが、この年のオフに金本さんがタイガースの監督を引き受けて下さって、僕自身も活力を得たのを憶えています。虎テレに加入したのもこの頃かな。大人版というファングループに入ったのもこの頃か。

大好きだった金本さんが理不尽に解雇され、何度目かわからないぐらいの球団への不信感を持った2018年頃、監督は矢野さんへと引き継がれる。金本政権時に蒔かれた種がここで次々へと開花していった。まるでノムさんの蒔いた種が星野さんの時に開花していったように、青柳梅野岩崎といった若い選手が躍動し、首位争いに食い込んでいったが結果は出なかった。この頃マサは10年ぶりの日本帰国を果たす。成田の入国審査で異常に緊張したのは忘れられない。成田空港の「おかえりなさい」の看板に泣きそうになった。

そして2020年からは本格的にコロナ。日も米も野球はもちろん様々な催しが軒並み中止に。普段当たり前にできていたことのありがたみをひしひしと感じる。外出できない状態が長かったおかげで、時差お構いなしに阪神の試合を観るようになる。おかげで今もなお年中時差ボケのような健康状態が続いている。試合をしっかり観ているため日本の阪神ファンの方々とも話が合い、親交が深まっていった。感謝しかない。

コロナ禍ではありながら2020年にはアリゾナ州ツーソンでジョージ・アリアスと、2022年にはテネシー州ナッシュビルでマット・マートンというレジェンド達とお会いする機会に恵まれました。二人共本当に深いところまでお話ができました。二人共いつか、コーチや監督としてタイガースに戻って来てほしいと願っています。

ちなみに2,022年度の観客動員数は阪神タイガース、LAD, STL, NYY, ATL, SDに続き、堂々世界6位だそうだ。2,023年の結果が楽しみ。

2023年からの監督が岡田さんに決まる。周りの意見は賛否様々。期待できないなって意見も多かった気がする。個人的には2008年の、最大13ゲーム差をひっくり返されたときのリベンジを、特に巨人をぶっ叩いて果たしてほしいと強く思ってた。

前年までの得点力不足がウソのように、ここで1本ほしい!というときに、特定の選手だけでなく、もうほぼ全員が期待に応え、結果を出していく。岡田さんのフォアボール査定も功を奏しているとは思う。だけどそれでしっかり四球を選べるかどうかは別問題。進塁打、犠打犠飛。とにかく次の打者へつなげる意識が、全選手が強く意識していた。そしてそれが結果として表れていた。マサはもう、ほぼ毎日、仕事から帰ってかなり早い時間に就寝し、午前2時のプレイボールに合わせ起床し、試合が終わる午前5-6時から少し仮眠してまた仕事に出かけるというサイクルを繰り返した。延長戦になり、しかもそれで負けたりすると、肉体的精神的疲労から、数時間後から始まる仕事でミスをすることもあった。おそらく体に大きく負荷がかかったのだろう。最大最高の喜びを得たが、おそらく老けた。でも全く後悔はない。夏の炎天下の中、キャンプ地である安芸を始めて訪れることができたのも2023年。

9月に18年ぶりのリーグ優勝、そして11月に38年ぶりの日本一。1985年とは違って、どちらかと言えばだが、日本一を取れた喜びは、個人的に1985年よりも明らかに大きく大きく心に響き、感慨もひとしお、うれし涙が頬をつたった。よく、タイガースの応援は食事や睡眠するのと同じで僕にとって人間の欲求と同じだ、みたいなことを言ってた。それも間違ってないけど新たに気づいたのは、阪神タイガースに対する気持ちは、家族や好きな人に対する愛おしい気持ち、大切にしたいという気持ちだということ。かけがえのないもの。愛だということ。この思いを持って来年からもチームと共に戦って行こうと思う。

旧約聖書の中で、イスラエルの偉大なる指導者、神に愛されたモーセという人物がいる。エジプトで不遇を受けていた60万人以上のイスラエル人を脱出させた大いなる人物だが、荒野で40年もかけて神に約束された土地へ人々を導いていたものの、結局モーセ自身はその地へ入ることが出来なかった。

あの手この手を尽くして日本シリーズのチケット入手を試みたが結局だめだった。転売ヤーから買うことはおそらく出来ていたとは思うが、あんな奴らの利益に貢献は絶対したくなかった。

モーセは荒野で40年。マサはタイガースで38年。優勝した瞬間その場に入れなかったとき、遠くいにしえの時代のモーセに思いを馳せた。タイガースの日本一を通じて、改めてモーセの費やした40年の長さがどんなものなのか、体感できた気がする。

ロサンゼルスからでも阪神が応援できていること、励まし励まされ合う応援仲間に恵まれていること、いやいやそれよりも、阪神タイガースの存在自体が僕をいつも勇気づけていること、全てのことに感謝をして、これからもタイガースと共に歩もうと思う。

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