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2003年ヒッチハイクの旅 〜0番線〜 あとがき

12年前

 12年も前に書いたものを、少し読みやすく直した。改めて読むと、当時よりもだいぶ考え方が変わってきている。部分的に、ぶっきらぼうに聞こえる書き方をしているところもあるが、なるべくそのときに思ったことをそのまま書いている。建前などの「良い自分」を演じたりはしていない。

 旅中は、イトーヨーカドーに一番お世話になったかもしない。国道沿いによくあった。
 降りるたびに言葉が変わっていくのが面白かった。店のベンチでぼーっとしながら周りの言葉に耳を向けるのが楽しかった。移動の際は、コンビニ観察。どこどこにはどんなコンビニがあるか。それは、帰りの14台目の人に言われて気づいた。その人は、それぞれの土地で(特に日本海側と太平洋側で)生えている木が違うと。私はまったく気にしなかった。でも、コンビニだけは見ていたなと思った。

 帰りの6日目、たまたま走っている車に乗っている人を見ていたら、助手席にいた男の人が、腕をばってんさせて×マークをつくり、「無理やねん、ごめんな」という顔をしていた。思った。なるべく車の中の人を見よう。こうして、コミュニケーションをとろうとしてくれた人がいる。そう思っただけで嬉しかった。もうすぐ帰るというときにやっと運転席の人の顔がまともに見れるようになった。

帰りのこと

 帰りの分はない。「0番線」と称した旅は、九州まで行くことだったので、帰りの分の日記はつけていなかった。日記は、旅中に2時間くらいかけて一日のことを書いていた。そのため、帰りの旅は旅自体を楽しみたくて最低限のことしか書いていなかった。

 帰りは1週間、15台で帰ることができた。旅の帰りは、旅の仕方みたいなものがわかってきたのか、あれほどお世話になった道の駅に行くことはなかった。寝たのも、そこらへんか、車の中。

 帰りの旅で特に印象に残っているのは、博多駅で野宿をしていると、男好きの男の人に声をかけられて、ハッテン場的なところに誘われたこと(もちろん行ってない)。3日目の静岡で、条件が悪いところで歩いていこうとすると、女の人がスケッチブックを持って車を停めてくれるというので渡したら、速攻で停まったこと。夜中に大宮駅から春日部駅まで5時間ぐらい歩いている途中、トラックにひかれそうになったこと。埼玉で乗せてくれたハーフの人が無免許運転だったこと。偶然が重なってビジネスホテルに泊まらせてもらったこと。自転車に乗せてもらったこと。
 帰りも、電車などは使わず、ヒッチハイクのみで帰った。そのため、本州一周をヒッチハイクしたことになる。

ヒッチハイクをしたことでなにか変わったか

 ヒッチハイクの旅の中で成長しなければ先に進めないこともあった。それは物理的に先に進めないことを意味していた。自分が窮地に追いやられる状況が生まれたことで、成長できた部分も多い。あれほど恥ずかしいと感じていたのも、後半は少し和らいでいた。

 ヒッチハイクをした後、考え方や価値観などが変わったかというと、特に変わっていない。それは、すぐに変わっていないだけで、それらが糧になり、考え方や価値観が変わっていくきっかけになったことは確かだった。また、本州一周のヒッチハイクをしたということが大きな自信につながった。

 今でも遊ぶ友人ができた。

スケッチブックに書いた場所名(帰り含む)

弘前
秋田
山形
湯沢
新庄
新潟
金沢
京都
敦賀
鳥取
出雲
下関
益田
北九州
広島
岡山
東京
宇都宮
福島
仙台
盛岡

乗せてもらった車と場所

赤色が行き。青色が帰り。場所はだいたい。


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