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自分史⑤霧の町ロンドンは灰色に染まる

ちょっと時間がたちすぎてどんなテンションで何を書いていたかわからなくなって読み返した。

多分何も考えず、書けばいつも通りなるはず。。

そうそう、たばこを吸う理由が見つかったのでまた吸い始めました。
決して意思が弱いんじゃない。 たばこの中毒性が強いんだ。

今回はフィリピン、マニラからお届けします。
なにもマニラ感は出さないけどね。

小さな恋のメロディ 

留学中、そうはいっても独身で健全な若者だったのでいくつかの恋もした。

前述したテキヤ業では多民族が入り混じってる中でタイ人の女の子と出会い、お付き合いすることに。

その子のお母さんも一緒に働いていたが英語もへったくれもコミュニケーションできなかったので会話はしてないが、何度も家に行ってタイ人に囲まれてピクニックなんかもしてたので悪いようには思われていなかっただろう。

そうはいっても外人同士。

英語はお互いたどたどしかったので電話で待ち合わせるにしても、ミスが連発した。

それがある意味では楽しかったし、言語の上達にパートナーを作るほど早いことはないので価値ある時間だっただろう。

ただ3か月と持たなかった。

価値観が違いすぎる。
文化が違うとかそういう次元じゃなかった気がする

細かいことは覚えてないけど、お互い幼かったのか一緒にいたいと思う時間が減っていき、ごく自然にフェードアウトする形で別れた。

それ以外でも女性の話はあるが書いててつまらないのでやめる。

廃墟サークル「彫刻の庭」

イギリスには美しい街がたくさんある。
コッツオルズ地方はイギリスの古き良き町がたくさんあり、そこにいるだけで前世を感じた。

ロンドン南部の海沿いは白い絶壁が果てしなく続き、セブンシスターズは灯台なんかもあって最高だった。

テキヤで走り回ったのもあるが、イギリスの免許も取得してとにかく車で動き回った。



前回最後に載せた写真は ブライトンの燃えた海上遊園地。
一緒に写ってた私を含めた3人が廃墟サークル「彫刻の庭」だ。

グリムはよくロンドン市内の墓場や廃墟の教会を案内してくれた。

廃墟やその空間の心地よさは言葉で説明しようがない。


ただ感性が心地よく感じるかだけで廃墟っていうけど別に廃墟じゃない場合も多い。

ただこの3人のハイキョリティが共鳴してたので いつも突然車を借りに行って 「ルージュの伝言」なんかを聞きながら旅に出た。

車を走らせてはしゃいでいても 古い給水塔を遠くに見つけると「どうやら 正解だったようだな」とか言いながらそっちに向かった。

ただ、それが楽しかった。

左の唐獅子、右の登竜門

ある日、彫師をめざす日本人の青年に出会った。
最近はどこにいるのか知らないが その当時からたくさんの日本画?っていうのかな、いわゆるあちらの方の背中一面に入っているような絵をたくさん描いていてどれも上手だった。

ただやはりアマチュアということで 誰も大きな和彫りを入れさせてくれないとのことでしきりに入れ墨を入れないかと誘ってくれた。

別に入れてもいい気はしたけど、国際支援の世界ってどうなんだろうとか、一生消えないってどういうことだろう とか考えると彫る理由も特になかったのでやんわり断っていた。

入れた理由はたしか失恋して自暴自棄になったせいだと思う。
「こんなもんが入ってるせいで仕事できない世界なら国際支援なんかやる価値ないわ!」みたいな謎のロジックだった。

背中に「八葉蓮華」、左足に「唐獅子牡丹」。
自分の信仰に寄せた感じ。

ほぼ同時期にバリのスタディツアーの時の友達がロンドンに遊びに来ていたので彼もついでに右足に「登竜門」の和彫りを入れ、肩にガネーシャも彫って帰り、気が付いたらシタールを弾くおじさんになってた。

久しく会ってないけど、たまに会うとお互いの足の入れ墨の様子を聞くことからなぜか会話が始まる。


現在この入れ墨を彫った彼は立派な彫師(たしか彫椿という屋号)として独立し、今も一生消えない傷を描き続けていることだろう。

自分が最初に彼の作品を最初に受け入れたことで彼の自信につながり、今につながったと考えるとまんざらでもない。

近隣の温泉に子供と行くときは左足にサポーターを装着するはめになったが現在まで後悔を感じたことはない。

とはいえ、僕の夢はもちろんそんなことではない。
本気で夢をかなえるための挑戦に入った。

鬱と怠惰と絶望の渦

何度も言うが立派に成長して大人になったわけではない。

今でもそうだがとにかく努力が嫌いで好きなことしかできなかった。

仕事も好き、金もあった。
テキヤの仕事のおかげでスラング多めだけど 英語にストレスがほぼなくなるくらいまでにはなれた。(今はほぼゼロ、、、)

でも、この後のことそういえば考えてなかった。。

友人はオックスファム(イギリス発祥の世界最大級のNGO)を進めてくれたけど、何をどう言えばどうなるのか考えすぎて勇気が出なかった。

国際支援というと言葉は一つだが、ジャンルも領域も国もある意味無限。

世界から不幸をなくしたい!なんか役に立ちたい!そんな若者はたくさんいるが実際に役に立つためのスキルを持っている人は少ない。

自分もそんな一人だったし、自分には何もないこと気づき始めていた。


自分はどこで誰を助けたいんだろう。何を変えたいんだろう。


一つ、思っていたことは人や社会から存在価値を認めてもらえない、気づかれない子供たちに「ありがとう」って伝えたかった。

感謝することで生まれた価値を伝えたかった。


ちょうどそんな時に読んだ本「死の瞬間と死後の生」。
エリザベスキューブラーロスというパンクな精神科医かな?の本。

死ぬと決まった人に寄り添い続け、死を受け入れる5つの段階で有名な人。


めちゃくちゃ影響を受けて、こんな風になりたいと思った。
そして医者はハードルが高いので看護師という選択肢を持つことにした。


ただ自分は本当にそれがやりたいのか、国際支援の現場に行きたいのか、そもそも途上国の現場で耐えられるのかを確かめる必要があった。

よし、じゃあインターンだ!

国はどこでもいい。
とにかく無償でいいから支援の現場で数か月経験させてくれるNGOか団体を探そう。

そっちの世界に知り合いはいないので とにかく国際支援やNGOなどで検索しまくって価値観が合いそうな人へメールを送りまくった。

ざっと50以上の人や団体に今考えると熱さしかないどうしようもなく、めんどくさい若者的なメールを送った。

「ちょろっと英語しゃべれるけど何の専門もない。でもやる気だけはあるからとにかく勉強と経験させてほしい。頼む!受けれてくれ!」みたいなメールだったと思う。

今なら「ほんとにやる気あるなら専門作ってもっかい来い」で終わりそう。


結果ほとんどリアクションがなかった。
今のようにSNSもない。顔も見えない。そりゃそうだと思う。

ただ一人だけ誠実に答えてくれたおじさんがいた。
その人がカンボジアのある民間NGOを紹介してくれ、ここならある程度は受け入れてくれるはずとのことだった。

「よし、カンボジアだ!」 2秒で決まった。

ここでまずは現場と途上国経験をして、それでも自分がぶれなかったら、一度日本に帰って看護師を目指そう。



そう決めた矢先くらいだったと思う。


「また親父がやんちゃして、どうにもならないから帰ってきてほしい」

そんなメールが兄貴から届いた。


続く。。。 

すげーなんかドラマみたいw

ありがとうございます。何かしら社会の役に立ったり、誰かの人生に影響するような記事を心がけていきます。 根が照れ屋なので 若干の不真面目は照れ隠しです。 ご承知おきを。