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文学との出会い方。

今でこそ数々と文学作品を少しだけ語るようになった正井だが、実のところ完璧に学歴コンプレックス持ちの衒学趣味である。

この記事は年齢バレが躊躇われるが、幾つか自身の記録、また本を読む子供の育て方という風にでも面白がっていただければ幸いである。

正井の実家は本が多くあった。武者小路実篤の『友情』、伊藤左千夫の『野菊の墓』、小松左京の『日本沈没』、植田まさしの『かりあげクン』『フリテン君』といった風にある。これは伯母が純文学好きであり、母が大衆文学を好み、父が四コマ漫画を読んでいたからだ。他にも大人向け子供向け問わずにいろいろとあった。わたしは幼児期に『ノンタン』で育っているらしい。暗唱できるほど読んでいたと今でも正井家では語り草であるが、その時からすでにオタクの発芽はあった様子である。

『日本沈没』小松左京

小学校時代に一度読んだが、名称が難しく理解及ばず。しかしこちらは2006年に草彅剛と柴咲コウの主演映画がある。公式サイトがないためWikipediaのリンクを貼っておく。映画公開時年齢ではサスペンスやパニック、また科学としても面白く読むことが出来た。読んだ経緯は「映画を見るなら原作を読んでおきたい」であった。大変面白かった。ここから小松左京の短編集に、かのオカルト伝説の『牛女』とも出会う。

https://ja.wikipedia.org/wiki/日本沈没

『怪談』小泉八雲

『地獄先生ぬ~べ~』

黄金期ジャンプ世代である。わたしの読んだ週刊少年ジャンプはリョーマ様がテニスラケットで血みどろになり、剣心が義弟に嫁を誘拐され、ナルトが九尾になったりならなかったりしていた。海賊王が海賊王たる宣言をしたのもリアルタイムで読んでいる。『地獄先生ぬ~べ~』は初見はアニメであるのだが、そんな週刊少年ジャンプにも掲載されており、コミカルな怪談描写とトラウマホラー描写と妖怪と人間という視点が『ゲゲゲの鬼太郎』(水木しげる)よりも人間、妖怪になる可能性さえ秘める小学生というキャラクターを視点に描かれる。鵺野先生が鬼と和解しゆきめさんを娶るという締めくくりはハッピーエンドそのものだ。

そして『ぬ~べ~』作中で最も名前が出るのは『鳥山石燕』であるが、次点が『小泉八雲』である。金田勝という乱暴者のキャラクターがいる。なかなかのトラブルメーカーでもあるので(「いつまで」は決して許さない。)好みは分かれるが、大人しく読書が好きな、自分とは正反対のキャラクターに惹かれる話がある。木下あゆみという少女である。そして彼女の勧めで「こいずみはちうん」を読む。読み違えるあたり勝の成績が伺える。そこからわたしは『小泉八雲』を読んだ。鳥山石燕も欲しかったが当時の経済力では無理だった。もともとコミック版では原作真倉翔の解説が入っていたのも大きかった。オカルトも好きであったことから小泉八雲自体はかなり昔から存じていた。

『赤い蝋燭と人魚』小川未明

これはわたしの脚フェチが目覚めるきっかけでもある。デンマークの人魚姫像の脚は特に美しい。D社の人魚姫も好きだ。そんな折に日本の人魚はどうなのか、調べた。人面魚じゃねーか!!!ちなみにインテリ分野高学歴の友人に例の人魚の絵ハガキを送ってもらった。まだ通信販売なんてなかったんや。

そして出会った絵本には、いわゆるメリバ的童話が醜悪なまで美しく描き上げられ、小川未明の研究が今ほど進んでなかったこともあり、唯一といっていい流通に乗っていた新潮社の短編集は正井の本棚に二冊ある。要するに大好きだ。この間やっとちくまの怪談集が買えた。

童話作家小川未明は本人が短気であったそうだから、短編小説が兎に角多い。文体もストレートにさくさく刻んであるから、親御さんの好みであれば読み聞かせにも最適に思う。


『吾輩は猫である』夏目漱石

実は読んでいない。しかしこれは文学者と呼ばれる人種がどのような生活をしていたのか、生活風俗資料として大変世話になった。『坊ちゃん』は教科書に載っていた時分に読んだ。国語の教科書とはそういう意味で素晴らしい存在である。

『贋作『坊っちゃん』殺人事件』 (角川文庫) という作品がある。『ジョーカーゲーム』の柳広司の作品で、『漱石先生の事件簿 猫の巻』 (角川文庫)では完全に『吾輩は猫である』を下敷きにした、もしも猫が探偵であったならという視点で読むことが出来た。『坊ちゃん』のほうは夏目漱石本人の自伝、また『坊ちゃん』を知り尽くした方なら絶対に面白く読めると断言する。他にも漱石がホームズになるなど興味深い作品が見られるので是非未読の方にはお勧めしたい。




『蟹工船』小林多喜二

十年ほど前、ワーキングプアやインテリジェンス層の冷遇から『蟹工船』が流行った。小林多喜二という政治的存在は兎も角として、ブラック企業で働く者たちに素晴らしいほど読まれた。わたしもその時期に一冊購入している。

詳細は省くが、小林多喜二の壮絶な最期については小学校の頃に履修していた。よって現在の日本に置ける表現の自由だとかそういうものを誤解せずにきちんと自由でありたい、自由とは何か、今でも探求の途中である。

他にプロレタリアートであれば葉山嘉樹の『セメント樽の中の手紙』が好きだ。

これはニコニコ動画の「文字を読む動画」タグにてあらすじ紹介、また改変作品動画で見つけた。あの動画投稿者さんはお元気だろうか。

黒島伝治の二銭銅貨もプロレタリアートである。一口にプロレタリアートといっても困窮の不幸を只管暗澹と描くものもあれば、一筋の光明を掴む話もある。あまり子供にはお勧めできないが、中学高校のあたりで社会系の教科書と一緒に読んでおくとかなり良い勉強になるのではないだろうか。


森鴎外・高村光太郎・永井荷風・谷崎潤一郎

この四名の作家は、全員系統が違うが同じ系譜の人物たちである。義務教育の補助教科書「国語便覧」などで詳しく読めるので説明は割愛する。

これら作品に手を出してみようと思ったのは、近年ブームである文豪題材作品が元であり、キャラクターとしての文豪造形にも一人のクリエイターとして目を見張るものがある。

そしてどれもが国語の教科書で出会う名前である。わたしは生憎『詩』というものが理解できない人間である。詩短歌和歌を中学の作文や高校の文芸部でのやり、賞をもらって新聞にも載ったが、結局理解できないでいる。これは高校で「鑑賞文」というテスト科目がトラウマであると思う。石川啄木の『一握の砂』から引用、“はたらけど はたらけど猶 わが生活 楽にならざり ぢつと手を見る”。この鑑賞文の正解文言は、「働いても自分の生活は楽にならない、石川啄木はそのような困窮した生活を送っていた」であったが、それは教科書から補助教材全てを読み込んでおく必要のある出題、試験である。

そんなことできるか!?

果たして今では出来るようになった。石川啄木がどのように生まれどのように生きて死んだか、森鴎外や永井荷風、谷崎潤一郎は教師としても一流である。高村光太郎は愛妻家の代名詞のような存在だが、案外彫刻家としての一面、書家としての一面、鑑定家としての一面、エッセイストとしての一面を調べれば調べるほど面白い。

暫し近代文学の推しである高村光太郎師について語るが、彼は西郷隆盛像で有名な高村光雲師の長男で、姉が二人(光太郎が幼少期に死別)弟が二人いた。末の弟である豊周氏家族が光雲、光太郎の全集や研究、回想録を手掛けている。光太郎は江戸の職人長屋に生まれたが、文明開化によって芸術学校に通うことを許され、泉鏡花文学に触発され観念的なものに興味を示し、(これは晩年の高村智恵子像にも見られるが、)彫刻家として人間として芸術家としての生き方を四年ほどの外遊で学んだのちに「高名な木彫職人の大人しい長男」は「高名な木彫職人の不良息子」に成長する。武者小路実篤や有島生馬と人道的芸術家として活動し、岸田劉生や梅原龍三郎と共に油彩画によって日本画をぶっ潰した。佐藤春夫の肖像など有名であるが、あの頃の作品は詩も油彩画も少し脂ぎった熱意がすごい。審美学の教師であった森鴎外との逸話もなかなか面白い。

エッセイストとしての光太郎は、粋であり大胆であり妙なところが奥ゆかしい。岩波版『緑色の太陽』収録の『父との関係』では反骨の塊たる若さを懐かしんでおり、『書についての漫談』では少しばかり辛口だ。『智恵子抄』で見られる色っぽく嫋やかな顔とはまた全然違う。

語りだすと長くなるのはオタクの悪い癖。(CV.杉下さん)


国語の教科書

国語の教科書で新見南吉の『ごんぎつね』を読む。宮沢賢治の『クラムボン』を読む。『坊ちゃん』『高瀬舟』『あどけない話』『啄木歌集』様々に文学作品が掲載されている。今の教科書は知らん。図画工作で水墨画をやるのは知っている程度である。

わたし達の時代は戦争について調べてこいという授業が多くあった。成果は昭和昔話(仮)に描いた次第だ。

野坂昭如の『火垂るの墓』だとか、あまんきみこの『ちいちゃんのかげおくり』、高橋宏幸の『チロヌップのきつね』、この辺り戦争作品として見せられた覚えがある。『チロヌップのきつね』は課題図書だったかもしれない。


読書が好き

本を読む子供というのは、本を読むのが好きである。

事実、そして真実わたしは本を読むのが好きだった。家の本棚と同じように、図書室に入り浸っては担任が呼びに来るまで読んだ。チャイムに気づけないほど没頭した。寺村輝夫の『こまったさん』シリーズ、星新一の短編集、サン=テグジュペリの『星の王子様』、『千夜一夜物語』、スティーブンソンの『宝島』、手塚治虫『ブラックジャック』は愛蔵版で知ったが母親が学生時代に初版で19巻まで揃えていたので愛蔵版未収録作品も読めた。高校受験の時期に『ハリー・ポッターと賢者の石』を読み、あさのあつこの『バッテリー』も好きだ。

こう列挙してみれば、純文学から漫画まで、兎に角何でも読んでいる。活字中毒という言葉があるが、わたしの場合は読書中毒と呼んでいい。つい最近、読書の時間が取れずに体調を崩した。ここ数年は太田詩織の『櫻子さんの足下には死体が埋まってる』にお世話になっている。ドラマにはがっかりしたよ、少年。上野正彦医師の『死体は語る』からのシリーズもすべて読ませていただいている。

高校の文芸部の延長で、素人同人誌を発行したことは随分とある。創作小説も気まぐれにpixivや小説家になろうで投稿する。が、自分が描いた作品は一切にして面白く感じる事がない。寧ろこの部分を書いているときはこういうことがあって、とリンクしてしまって体力を使う。

これは何故かとこの文章を書きながら少しだけ分析したが、自分が描いたものには自分が知っていることしか書いていないのだ。これは今気づいて愕然とした。知らない文字を調べたり、知らない言葉を使ってみたり、知らない展開にのめりこんでみたり、これは確かに自分の作品には描くことが出来ない部分である。登場人物の頭脳は筆者の頭脳を超えることは不可能とはよく言った。わたしの作品にはわたしが知っていることしか書いていない。

一種の知識欲が読書を止めることをしないのであろうか。確かに大高忍『マギ』の登場人物なら絶対魔導士に生まれている自信はある。そしてマグノシュタットでの体力訓練でぶっ倒れる自信もある。

これは完全な余談であるのだが、わたしは無残絵と呼ばれるものが好きだ。月岡芳年、河鍋暁斎、あたりが特に好きだ。夢野久作に『死後の恋』という作品があるが、ああいった物語も大好きというと人間性を疑われそうだが矢張り大好きである。

人間の内臓というものにわたしは触ったことがない。大量の血液が飛び散る様子も見たことがない。が、現実に触るには上野正彦医師のような専門の免許と施設が要る。そしてどこからか人体を調達する必要もある。こういった疑似体験、作品を通して何か未知のものに触れる、これが経験できるのも読書の良いところだ。林望の『イギリスはおいしい』でイギリスに行ったような気分になる。

ハリーと共にホグワーツに行き、間黒男と一緒に命の不条理を叫ぶ。こまったさんと一緒に料理をして、N氏と一緒に皮肉な体験をする。こういった行為が好きであれば、また文字を負うことが好きであれば、それは本を読むことが好きな人間になる一歩の素質であると思う。

こう書くと案外読書好きって条件案外ハードだな。

いやしかし、今は素人が小説を投稿できるSNSは多いし、冊子という媒体でなくともkindleや青空文庫のようにタブレットで読める。

「最近の電車で読書をしている若者を見ない」と嘆いた人物と会ったことがあるのだが、なかなかお年を召した方であったので、「スマホばっかり見ている」と言われた隣でスマートフォンで青空文庫アプリを開き、失礼しますと前置きし、芥川龍之介の『煙草と悪魔』を朗読してみれば、合点が得られた。

読書離れは起きていない。寧ろパブリックドメインの利用や個人創作で読み物自体はぐっと増えた。東雅夫氏のアンソロジーにはいつもお世話になっている。二次創作や三次創作文化もあるし、何より表現の自由に守られた、個人の思想や哲学に触れることも可能なのだ。疑似体験や空想妄想、事実の探求を求めて人々は執筆し読む。読めない人間向けの朗読や翻案も繰り返されるし、戯曲演劇まで手を広げれば、目が足りない体が足りない程度に読書を基にした世界は広い。

虚構と創作と現実とを見極める技術、虚構を面白がる知識、現実を裏付けする地に足つけた思考力があれば、いや、これはあとあと、学習という成長でいいだろう。


さいごに。

絵画が嫌いな人間はいない。それと同じく、おそらく読書が嫌いな人間もいない。

絵画を嫌いになる人は、大抵周囲の声で嫌いになっている。絵を描くことをやめている。上手に描かなければいけない、本物そっくりに描けると褒められる、そんな風に叱られたり褒められなかった子供はどんどん絵画を嫌悪するようになっていく。

では読書に対する嫌悪とは?なぜ読書を遠ざける?やはりお手本通りの読み方や回答を求められるからだろうか。これはきちんと研究される方にお渡しして、素人は好きな読書に没頭することにする。



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