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建前って嘘をつくことでしょう?

結婚は好きな人とするべきもので、だけどその人を好きじゃなくなってしまってもなんとなく続けるべきもので、っていうルールに、どうしても乗れないなと最近気づいてしまった。

でも世の中には、「そりゃあ(どこかしら)好きだからしてるさ」っていう顔をしている人がたくさんいるのだなと個人的には思う。

それってタテマエでしょう。建前は「日本の中で、ついてもいいとされている嘘」と中国人ユーザーがTwitterで発言していて、素晴らしく正確な理解だなといまさらながら膝をたたいてしまうのだ。

(どこかしら)好きなんだよね、でもそれは結婚を保持しつづけるに足る熱量なの?

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きょう年下の友人に、私は人生に我慢をしたくないから好きじゃなくなった相手とはパートナーの関係でいたくないのだ、と話した。法律婚であれ異なる形であれ、そういう状況にもかかわらず周囲からパートナーとみられることには、不便があると感じるのだ。関係が解消されないままに私が好きな人と関係を深めることはこの国では違法だ。相手が関係の解消に同意しないことは私の人生にとっての障害となりうる。

友人は、それが一人の意思で解消できないなら我慢せずに新しく好きになった人と無音で関係を築けばよいといった。

私はあまりに厳密に、結婚を定義したがりすぎているのかもしれない。みんなは「好きだから結婚する、でも結婚したら結婚するほどは好きじゃない」という瞬間を上手に乗り越えながら、現実が嘘にならないように調整しているように見える。

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誰かを全力で好きでいつづけることなど所詮無理なのかもしれないし、でももしかしたらありえるのかもしれないとこころから信じている。線香花火のようにちりちりとずっと好きでいつづけて、相手が関心を払い続けてくれるよう心を込めて祈るのだ、好きでなくなるまで。そうしてきっと自分にも同じく温かいものが提供され続けると期待していけない理由はどこにもない。あるいは、二人の間の言語にずれが起きないよう、メンテナンスを怠らなければ。

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結婚は、そもそも恋愛と両立しないものと考えることが賢明なのか。生活を守ることが結婚でそこには第三者も登場する可能性すらあるのだから、不意に落ちる恋という心理状態の延長線上に置けばミスマッチを引き起こすのは自明の理?

誰かの事を特別に好きで変わりがいないはずだなんて、ちょっと頭の螺子がはずれていないと思い込めない。そうして思い込んで言葉や時間やからだを重ねるうちに、他にはない何かの共有者になってしまって、手放したくなくなってしまって、生活すらいっしょにしたくなってしまう。それが特別さを消していってしまうと頭では理解していても。

「IS」というインターセクシュアル(半陰陽)の登場人物を描いた漫画作品がある。この作品の中に「性別は無限に広がるグラデーションで、男であるか女であるかは白黒はっきりつけられるものではない」というようなセリフがあったと記憶している(残念ながら、今手元に本がなくて元のセリフを調べられない)。

そうして、恋愛と結婚も実はグラデーションなんだろうと一人で結論づけた私は今晩も、好きと便利の間をひとりうろうろ歩いてる。


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