自戒を込めて

好奇心を持ち続ければ、何歳になっても新しい発見に出逢うことができ、活力を得ることができる。
子どもの頃から好奇心旺盛だった人が、大人になった途端、その心を無くしてしまうことはなかなかないと思う。きっと関心に向き合えない事情があるだけで。

でも、好奇心から生まれる行動っていうのは、たまに人を傷つけたりしてしまうこともある。
しかも、その好奇心というものが純粋なまなざしであればあるほど。
否定しにくいんだよなぁ、そういう純粋に、知りたくて、興味があるということを。
しかも、そういう好奇心を持っている人は、好奇心が向かう相手の心をえぐっていることに全く気づくことができない場合が多い。
なぜなら、ただただ純粋に、面白そうで不思議だなと思っているから。

そういう人の思想の根底には、実は偏見的な基準が設定されていて、だからこそ、その基準から例外の人や出来事に対して、不思議な珍事としてがっついてしまう。
…なのかもしれないと、そういう場に遭遇すると激しく嫌悪感を感じてしまう。

私もきっとそういう基準を設定して、その基準の外にはみでた人を見て「おもしろ人間」みたいな感じで処理してきたことがあるのかもなと、ふと考えては反省している。
ここでいう「おもしろ人間」っていうのは、特別な境遇をもつ人や側から見ていたら笑い事として見過ごせる人のこと。

なぜ突然、好奇心に言及したかというと、何かテーマを決めないといけない仕事があるから。ここでは書かないけど。
とりあえず、テーマを何にしようかなと考えていて、前から興味があった「死」に関するものや、「ものまね」から生まれるオリジナリティーとか、そういう自分が抱いてきた好奇心の的をテーマにして何か企画しようと思っていた。
でも、先に述べたように、何かおもしろいことをピックアップするときに、世の中に生きる誰かの人生を物語化してしまっていないか?と疑問が浮かんでしまった。
つまり、自分の純粋な好奇心で世の中の誰かを傷つけてしまっていないか?という疑問、そして自分に対する嫌悪感が生まれてしまった。
他者に対して、好奇心で人を傷つけるなと言っておきながら、自分も好奇心を使って加害者になる可能性がある。
そういう意識を持って企画作らなきゃなと、深く心に刻んだ今日この頃。

境遇というのは、本人が選んだわけではないようなこともたくさんある。私も、自分に関する質問をされるたびに「境遇を選べるのなら選びたかったぜ〜」という思いをすることが多々ある。あと、本人は何も思っていないのに「世間からはズレた特別な人」と勘違いする人もいる。
そういうの、よくないよな〜。自戒を込めて。

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