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A Tiny City, A Tiny Life (デッサン練習)

5歳から小4まで、大村湾という内海沿いの小さな町の、ひなびた漁村に住んでいた。

内海沿いの小さな町

のどちんこのような半島の突端にある新築の職員アパートは、いまで言うメゾネットのような造りで、1階はダイニングキッチンと小さな居間に風呂、汲み取りトイレ、そして2階は6畳2間の間取りであった。

(当時)新築の職員アパート

2階の片側に父母の寝室、もう片側に兄妹ふたりの寝室、2段ベッドの下がわたしの巣だ。部屋の隅に共有の学習机は置いていたが、ここで学習をした記憶はない。もっぱら1階の居間にあるちゃぶ台で、日記や計算ドリルを済ませていた。

同じ町の市街地からここに越してきてすぐの記憶。
わたしたちの部屋には、小さな押し入れのような収納があって、その下部に明かり取りの窓がついていた。晴れた昼下がり、押し入れに入ってその窓を開けると、目の前には漁船が何艘も碇泊していて、船同士がこすれる音や静かな波の音、潮と重油の香り、海藻が腐った臭い、それらすべてが心地よく、わたしはそのまま眠ってしまった。
この景色、この時のわたしを、何度も不意に思い出す。わたしはただ幸せであったし、何もかもこれでいいんだと感じていた。

人生とは、happy ever afterめでたしめでたし のゴールから、そうと分かっていても、逆さに歩み続けなければならないもの、なのかもしれない。
誰にとっても等しく。

このアパートからほんの数分、腰ほどまである薮をかき分けて歩くと、『魚雷亭』という名のあばら家があって、わたしにはアイスクリームを買える最寄りの店であった。漁船の匂いがするコンビニであった。
さらに薮深い獣道を数分歩くと、粗いコンクリの朽ちた建造物があり、釣り人たちが座っていた。

粗いコンクリの朽ちた建造物

ウエキさんとかソイギーとか、いつもチョコをくれるこのおじさんたちは、なぜいつもチョコを持っていたのだろう。大方おおかたパチンコの景品だろうと思っていたし、思っている。

これは魚雷発射場、正確には『魚雷発射試験場』の跡。戦争のときに――思えば、まだ戦後40年にも満たない頃だった――ここから魚雷を撃っていたのだ、と何の疑問の余地なく知っていた。学校に上がる前のことで、魚雷とは何かも、それを撃つとはどういうことかもよくは知らなかったが。
父とよくこの道を歩いた。父は釣りが趣味だったから、小さいわたしはただついて歩いた。わたしは釣らず、干上がったフグやバリを踏んだりつついたり、フナムシを素手で捕まえたりしていた。どうにも釣りは、長じてもわたしのしょうには合わなかった。
口笛も九九もこの道で覚えた。

車で20分ほど、町の中心部にあるカトリックの幼稚園に、母が毎日送り迎えをしてくれた。
町立幼稚園/保育園が多数派、このキリスト教の私立幼稚園は少数派であった。何かの軋轢、何かの格差、そういう気配は母親同士の世間話から十分に感じ取れる。
キリスト教と言えば賛美歌かと言えば、必ずしもそんなことはなく、殉教者を讃える歌が暗く恐ろしくて、町立の子たちが内心羨ましかった。

無事入学を果たした僻地の小学校は集団登校で、学校までは大人の脚でも30分、わたしたちは40分強、おそらくかかっていたのではないか。

のどちんこから学校の地図

小6のはっちゃんは、なぜかいつも全員を走らせていたので、大嫌いだった。遅刻でもないのにやたらに走る意味が分からなかったし、心臓の弱い2年生(名前を失念した)が顔を青くしてついてゆくのを、わたしは毎日見るに堪えなかったのだ。はっちゃんは、いまも走っているのだろうか。

帰りは自由下校であったから、よほど気が楽であった。
小山のてっぺんの学校から坂を下り、派出所を左に曲がり直進する。
この国道沿いには、夏前になると蛾の幼虫が大量発生した。黒地にオレンジの毛虫、わたしたちはゲジとかゲジゴとか呼んでいたが、避けるにも避けられないほど多かったので、踏んで進むしかなかった。どこで覚えていたのか、ここを過ぎるたびに、わたしは手を合わせていた。
余談だが、この途中にある上り坂の突き当たりに真奈美ちゃんのうちがあり、彼女とわたしとはなぜか仲良く、たまに遊びに行っていた。
ある日、庭から十円玉に似た謎のコインが出てきた。

十円玉に似た謎のコイン(サンプル)

それが台湾(中華民国)のものだとすぐに分かったわたしは、台湾を知らなかった真奈美ちゃんから気味悪がられたのを、ひどく鮮明に思い出す。その頃から、わたしはいっぱしの貨幣オタクだっただけだ。

この国道から信号を渡って右に折れ、細い道を港へ向けてひたすら下る。ここからの湾の景色は、わたしには空気のようなものであったけれど、思い出せば大した絶景であった。
この坂は、梅雨時などは小川のように水が流れ、足が取られないか不安な時さえあった。
左側に粘土質の崖、右側には漁村と湾が見え、この崖からは面白いほど黒曜石が出てきた。

面白いほど黒曜石が出てきた

雨で崖が緩むと、表土が溶けて石が露出するから、黒曜石を拾っては防護壁に叩きつけ、欠いて遊んでいた。大人になるまで、これは万人の共通体験だと思い込んでいたが、黒曜石は教科書でしか見たことがない、と妻から聞いてはじめて、これがなかなか稀少な遊びであったことを知る。
この手の勘違いは、他にもたくさんあるに違いない。不肖、妻がひとりだから気づかないだけなのだろう。

下りきったところに集落の古い公民館があり、数体のお地蔵様、講の石碑が並び、それに御堂で囲われた馬頭観音が祀ってあった。赤い前掛けが、なぜだか少し怖かった。
ここを海に沿って進めば、明るいけれどだいぶ遠回り、一方で小山を突っ切れば、距離的に相当なショートカットであるが、頂には古くからの墓場があるので、わたしは嫌で仕方がなかった。自己流で、墓なんかが怖くない根拠をいくつも思い浮かべ、目を逸らして、時には目をつぶって小走りで通っていた。
ところで、これより少しあとに、わたしはここではじめて人魂を見た。

人魂(サンプル)

人魂が怖くない根拠を急造したのは言うまでもない。

うちに帰っても、うちに居る時間はほとんどない。すぐに着替えて剣道か、そのままピアノか、車で習字に行くか、とにかく毎日何かを習っていた。疲れは覚えなかったが、これが当たり前だと信じていたからだろう。習い事から帰ればすぐに飯を食って風呂に入り、ほんの少しの間くつろいで、9時までには床に就いていた。
ただし土曜日だけは『世界ふしぎ発見』を見るので、特別に10時まで起きていてよかった。大人になりたいのに、毎日10時までテレビを見れるから以外の理由はなかった。

大人は10時までテレビを見れる。
だけど、それは思ったほど面白いものではなかった。


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