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<母親との大一番>について

ずっと新宿に住んで父親になった

人に話せばかなり重たい話に聞こえるみたいだが、小学生の時の母親との切ない思い出と片付けることもできる。

近親相姦の話。

小学校5年のホワイトデーの日に他界したので、今となってはそんなに思い出も多くはない。だから貴重な記憶であるとも言える。

大好きな母親が気がつけば酒に身体が侵され、コントロールを失ったモンスターに変貌していただけだ。仕事場が歌舞伎町の屋台街とあって依存症を作るには最適の職場で、最適の人間関係があった。

基本的にアルコール依存症(物質使用障害)になる人はDNAで飲める体質の人に起こる病気だ。逆に急性アルコール中毒になるようないわゆる下戸の体質の人は、依存症にならない。ある程度量を飲める事が条件だ。

そして環境の影響を受ける。


DNAと環境がアルコホリックモンスターを作る。

難しい事は専門家の方に任せるとして、

自分の実体験から病気の実態を話そうと思う。


アルコールの話の前に【きんしんそうかん】。


近親相姦(きんしんそうかん)。

この言葉に聞き覚えのない人も多くいるのかな。

知らなくていい言葉だ。

AVぐらいでしか聞かない4文字だ。


近親相姦という字面も恐ろしい。

この4文字を自分に当てはめる事自体吐き気がする。

意味リンクを貼り付けることもしたくない。


そういう逆境体験で

ツライ、苦しい、死にたい。。。

そんな苦しんでいる人たちも大勢いる。

とてもツライはず。


ただ最初に言っておきたい。

noteに書き記したように母親のことは今でも大好きだ。

そして母親の行いに対して今は恨みもないし、嫌な印象もない。

過去の事と捉えている自分には今は経験という財産になった。


とある場所で、

とある会合で、

オレの話は面白おかしく人々に伝わったり、

タメになったと感謝されることをここ数年で経験した。


マイナスでしかないと思っていた経験が役立つこともあるんだと知った。

オレだから言えることもあると知った。


そして、ツライ経験をしている人が公に口を開くことも多くない。

喋りたくないに決まっている。

今の自分は支えてくれた周りの方たちのおかげで

しっかり素直に話すことができる。


だから自分の過去と同じように苦しんでいる仲間に向けて、

奥底に眠るオレからのフルヌードメッセージを贈りたい。

と思うようになった。


たいした正義感でもないし、社会貢献とか立派なものでは決してない。


でも少しでもメッセージとして届けば、

自分の経験が少しでも役に立つなら、

そして、しっかり自分が自分を取り戻せそうな気がするから、

自分のために、家族のために書くことにした。


自分も長年かけて進行するアルコールの病気にかかり、

2年半前にようやく止められ、

いろいろな気付きに遭遇することになり、

人生で初めてコントロールの効く時間を過ごしている。

今は幸せだから、それを書きたい。どうにかなる!

前向きな今を書きたい。


次回はしっかり今現在の考えを書いていこうと思う。


とりあえず過去の話をまとめてあるので、

今回はそれを貼り付けてみた。

最初の目次からも行けるようになっているので、

是非読んでいただきたい。


<<< 過去の話 >>>

りあるマザーファック

小学校の時、友達の家に行くと胸が絞られるような違和感を覚えた。

幸せそうな家族がオレの心を締め付けた。
仲良さそうな夫婦に、3つぐらい上の兄貴、まだ幼稚園に通っていた妹、そして三階建の一軒家。友達の家は当時日本テレビのゴルフガーデン横、新宿5丁目にあった。
数分で四季の道の入口だ。かなりのところに建っていた。そんな立地とは思えないぐらい柔らかく、しなやかな時間の流れ。遊びに行くと今でも忘れられないぐらいの締め付ける感覚が毎回あった。

その経験はその時期だけ。

恋人にキュンとくるのに似てるがもっと鈍い締め付けを味わった。

切ないが羨ましい。

酒の悪魔が住むアパートの我が家<新宿6-18-14>とは違いすぎて羨ましいとも感じなかった。

子供として時間を過ごせる自由があった。
わかりやすい愛があった。
先が見えた。

そんな家で過ごしている友達は小6半ばで下の毛が生え始めた。

緑のおばさんが、ありがたい事に毎日子供の安全を考え、通学路を守っていてくれている通学路を通って帰ったある日、横断歩道の待ち時間にさらっと見せてくれた一本のちんげ。オレに自慢してきた。
生えていない自分は少し焦った。

それより何より、

オレはやっちまっている。

やっちゃいけないことを毛が生える前にやっちまっている。

と学校帰りにココロでつぶやいた。

誰にも言えねー、、、

やっぱり言えねー。 。。

このコラムは、ある荒廃した家庭に挑んだ、1人の青年の記録である。新宿に生まれ育った無垢な小学生時代に、アルコール依存症とバイセクシャルという特異な両親に囲まれ、酩酊した母親と強制的に初体験をさせられ、その後30年近くに渡り自身もアルコール依存症に苦しみ、その中で設けた我が子との絆を通じ、寛解するまでと、その原動力となった信頼と愛を余すところなく完全実話で書き下ろしたものである。


今は言えるから書くことにした。

この話の詳細を大きくなるまで誰にも話せなかったし、内容的に話せるような心理状態になったとしても、楽しく話せる内容でもない。
万が一、話せたとしても聞きたくない人が大半だろう。

と思っていた。

自分にとって、いまは大した話ではないので普通に書くが、

オレの初体験は母親のお尻の穴だった。

エロ小説でもなければ、妄想に取り憑かれているわけではない。
新宿の公立小学校に通っていた3,4年生の”りある”な体験記だ。

ここから先は読みたくない人も多いと思うので、あえて直接的な言葉で書いた。

性的虐待で苦しんでいる人も多くいることをオレは知っているし、その問題だけではなく、複合的に悩みを抱えている人も多くいる。

だが役に立つ、勇気が出ると思ってくれる人も多くいること。
最近の実体験の中から自分をさらけ出すことで助かる人も多くいることを感じ取った経緯があって、この文章を時間をかけて丁寧に公開していることをご理解いただきたい。

今は前向きにとらえている本人の強い気持ちが入った命懸けの告白。
今は明るく楽しく生きている自分の体験記。
現段階で息子には話せないが、いずれ話す時が来ると思っている。
母親のことは大好きだ。それも併せて伝えたい。

***

3年生の終わりか、4年生の始めか、いつ頃だろうと思い返すたびにいつなのか正確な時期がわからない。

正確な年齢がわからない。
夏なのか、冬なのか、わからない。


時間帯はわかる。

毎日繰り返される睡眠の時間は、何が起こるかわからない予測不能の魔の時間であったが、その日は何事もなく六畳の部屋に布団を並べて母親と寝ていた。

2人とも右を向いて押入れの方を見ながら寝ることが多く、その日も同じスタイルで右向け右で寝ていた。父親は、狭いアパートに似つかわしくない上段にベッドが付いている立派な学習机に寝ていた。

その机のベッド、最初はオレの寝床だったが、1人で寝る寂しさか、いつしか下で寝るようになっていた。

ちなみにこの立派な机は、小学校入学祝いで大久保ばあちゃんにもらったものだ。
母親の友達&歌舞伎町屋台街のボスからのプレゼントだった。

納品の日、玄関から入れるのが大変で、こんなに大きな机いらなかったと父親は嘆いていたのを覚えている。でも子供ながらに高価な机だとわかっていたので、オレは嬉しかった。

夜が明けた。

何事もなかった夜が明けた日の朝。

起きると感じたことのない感触を下半身に感じた。

母親の右手だか左手だか覚えていないがオレのちんちんを握っている。

立っているちんちんを母親が握っている。

勃起は経験済みだったが、刺激による勃起は初めての経験だった。

【おそらく】刺激による勃起としか言えいないが。

9,10歳のオレは違和感を感じたが、不思議な感覚に興味を覚えた。
握られていた事実はあったが何事もなかったように布団から出て学校に向かった。

次の日か、

その次の日か、

はっきり覚えていないが、

連夜ちんちんを握られた。

飛び石かもしれないが、

母親連続ちんちん握りナイトスタートだ。

そのフェスは暗黙の了解の中、慎ましやかに最後まで執り行わることになる。

最後は最後だ。

***


2回目は母親の目的がはっきりした握り込みだ。

実の子のちんちんを立たせ、自分の快楽のために使用するマジカルスティック(MJ)にするためだ。

オレの視点だとMJの目的は定かではなかったが、しっかり反応し、生物としての性を全うしていた。

「おしりに入れてみて」
かな。

重要な言葉をよく覚えていないが、ファミコンではしゃいでいる小学生に、母親の言葉は非合法に認定して欲しいほど性暴力極まりなく、人生を変える強烈な淫語だった。

とにかく菊のラビリンスへの招待状を渡された。

人類がここまで地球に溢れている仕組みの一部を目の当たりにした。

興味が湧いた。

たぶん興奮したんだと思う。少し。

これはエロ小説ではない。
オレの体験した事実だ。
AVのストーリーなどに似通ったものがあったりすると萎える。こんなストーリーを考え興奮している人がいると思うと萎える。

自分が一番やりたかったこと、望んでいることは、

ただただ母親に甘えたかったんだと思う。

大好きだった母親はこの頃、泥酔している時間が多く、連続飲酒の闇にどっぷり浸かっていた。

酒に支配された母親を自分の手元に引き戻したいと思っていたと思う。

酒より息子。

そんな当たり前の選択を間違えるほど、酒による脳へのダメージは深刻だった。

そして母親のマッドブレインは、ついに息子の息子に手を出してしまった。

お誘いというより強制に近い。

オレの選択肢に拒否は存在しなかったから。

悪い事とか、やってはいけない事とか、そんな感覚はなく、母親の手引きに従って事を運ばせれば良いと判断した。

「おしりに入れてみて」

右向きで腰を突き出した母親のお尻には排出をするだけだと思っていた穴が存在する。

小学生が大好きなうんちが出るところだ。

そこにチンチンを入れろという。

母親と同じ体勢になり重なり合ってチンチンを穴に入れようとした。

不安とか不振とか、嫌悪とか一切ない。

簡単に言うとワクワクでしかなかった。

知らない人にやられているわけではない。

酒を飲まなければ優しくて大好きな母親からの誘いだから普通にいいねボタンを押していた。

年期の入ったふしだらなお尻に頑張ってMJを押し当てるが、サイズの問題なのか、硬さの問題なのか、肉厚の門扉はオレの未完成品を受け入れようとしない。

海老反りで入れようと試みた。

何となく入ったのかな、、、

が、よくわからない。

この時点で何をしてるのかわからないから、このあと何をして良いかわからなかった。

この時点では母親を不快に思った事はない。

半強制的だがオレにも選択権があった。

そこなのかもしれない。

オレよりツライ経験をされてきている人との違いは選択権。

合意の上だったというやつだ。

だけど、その選択権を使えるのか。。。

その選択権がある事を知らないからやはり強制的だったと思う。

一時的な選択権だったから。

無知な小学生への強制的で計画的なレイプだ。

でも書いててもなんだかわからない。

強制?セレクト?好奇心?

でもやっぱりダメだよな。全てだめ。

その事を話せずにずっと生きなければならない。

だいぶ大人になるまで恥ずかしい隠し事として重く心を支配することになる。

そこが大きな問題になってくる。

経験したことがある人はわかると思うが、犯行当日の記憶のみに悩まされるわけではなく、その事を忘れられず、汚らわしい物をずっと背負って生きていかなくてはならない終わりがないように感じる生きなければいけない時間【生き地獄】が辛い。犯行当日から自分が死ぬまでずっと続く。その長い時間の中でやらなくてはいけない社会人として世の中に対して懐疑的で義務的拘束生活をしなければならない。まともに社会に馴染めるはずがない。生きづらい。

***


いま文章を書きながら思い出している。

母親とのフェスについて。

おそらく回数は4回だ。

性交渉と呼ばれるのは4回。

1回目はMJを握られた。それで終わりだった。

2回目は「お尻に入れてみて」だった。

2回目のあとの話がよく思い出せないのだが、3回目、自らそういう行為をやりたいと自分が思った記憶がある。

おそらく3回目は自分から行為におよぶように促したと思う。

すんなりと了承を得て、おしりに入れようと頑張ったが無理だったので、

母親が

「お口に入れてあげる」

的なことを言ってオレの下半身を自分の口元まで運ばせ、口に含みだした。

二次成長期を迎えていない自分のMJは皮被りのタートルネックボーイだったので、スタンドアップすると皮が突っ張り痛い感じがしていた。

(その後、性に目覚めたオレは小学校4年生中盤ぐらいにはタートルネックはズルっと顔を出すぐらい自愛しまくった。移動教室のお風呂では顔を出したタートルを必死に元に戻す作業を繰り返した。中学卒業まで恥じらいの被せ行為は続いた結果、ビガーパンツ(皮被り矯正パンツ)を履けよとコミカルな友人に言われるぐらい皮被り扱いをされたwバレたくない。母親との行為と早く目覚めてしまった自分がバレるのを必死に隠した。当然父親はそんなことをしているなんて思っていなかった。いろいろ書きたいが本題からズレたので終わりにする)

痛い感じとまとわりつく粘膜と羞恥と好奇心と母への愛が入り混じった動物的な舐め合い(一方的だったが)のようにも感じ、遠く離れたアル中の母親との距離が縮んだかのようにも感じ、一時的に悪い気はしなかった。と思う。

果てることもなく、その場は終わり、残ったのは<スメルズバッド>だ。

オレのMJは猛毒に侵されたかのような酷いニオイをまとわせていた。

腐っちまうんじゃないかと本気で思った。

母親はアル中になってから歯も磨かず、酒ばかり飲んでいたので、口腔内は最悪で、歯槽膿漏MAXだった。

そのニオイがオレのMJにこびりついて耐えられるものではなかったから、すぐに風呂場に駆け込み、水のシャワーで洗い流した。

当時の我が家のお風呂はスイッチ的なもので作る火種(よく覚えていない)で着火させて始めてお湯が出る仕組みだったので、いち早く洗い流したい自分は水を急いでかけて流した。

石鹸で洗い流す。シャンプーをつけてみる。。。

一生ニオイが取れないんじゃないかと思うぐらい悪臭はしつこく、何分だろう。。。最悪セルフソープランドタイムは。

不安とこみ上げてくる罪悪感的なものとが入り混じり、大混乱していた。

賢者タイム的なものもあったのかもいれない。

さっきまでの好奇心は一瞬にして消え去り、ドロドロした悪魂が身体に染みるような重い気持ちになったことを記憶している。

もう一生しない!とココロに誓ったはず。

とてつもない後悔が襲ってきた。

重い十字架を背負った感じなイメージかな。

何事もなかったかのように寝ている母親をおいて近くの神社に一人で歩いた。

二足歩行をするオレの真ん中に悪童が誕生してしまった。

あてもなくとはこの事だ。どうしようとか、やばいとか、知られたら完全にアウトだとか思いながら歩いた。

その後どうやって家に戻って、どうやって母親と顔を合わせたか覚えていないが、

次の朝の母親の記憶は優しい母親とは遠くかけ離れた対応を自分に向けてきた。

一生忘れることのない最悪なコンタクトをオレに向けた。

***

こういう下世話な身の上話を展開する事自体全然問題なく、大したことはない。とっくに乗り越えたし、とっくに消化していると思っていたが、数日間完全に精神がぶれている。ある方に言われた症状がそのまま出ている。だが、今まで乗り越えてきた諸々の経験と自分がしっかり見据えるビジョンのために今日も書くことにした。不思議と書いている最中は落ち着いている。


2回目マザーファックの次の朝。

悪いことをしているのか、していないのか、わからない。

完全にはわからない。

でも、やっぱり友達には言えない。

不安は消えなかった。

母親との悪戯<タイマン>の数々はそれだけではないし、

全部、母親のアレコレを口外できない。

ランドセルが似合わないことをしてしまったことは確かだ。

だけど家族の中では言って良いのか悪いのか。

わからない。たぶんダメだ。

ダメなことを母親はオレにしたのか。

母親には話して良い??

当事者だけど、そういう事は話しちゃいけないのか??

。。。。。。

いろいろ考えて昨日の性的虐待話をオレは父親の前で堂々と話そうとしていた。

だけど話せない。

と思いながら歯磨きをしに台所へ向かった。

そこに母親が近づいてきたから思わず、

「またしようね。昨日やったやつ」

と言ってしまった。にこやかに。

父親は数メートル先でタバコを吸って座っていたと思う。

だが父親には聞こえなかったと思う。

その後、何も聞いてこなかったから。

「またしようね。昨日やったやつ」

それを聞いた時の母親の顔を今でも忘れられずにいる。

言った瞬間、見たこともない形相でニラマレタ。。。

完全に虐待の目だ。

オメー言ったらぶっ殺すぞ!!!!!!!!!!

という目だ。

心の底から怖いと思った母親の目つきを受け止められず、

目をそらし、無言でうがいをして学校に向かった。

何事もなかったように。

誰にも言えない。

そんな事。

相談できないし、相談するものでもないと思っていた。

当時のオレの知識の中では、相談窓口なんてどこにもなかった。

あったとしても言えなかった絶対に。羞恥、恐怖、意味不明。

そしてアルコール依存症を抱える家族特有の秘密保持があるからだ。

まともに母親のことは家以外で話せなかった。

しんどい。

だけど、3回目、オレは母親が寝ている身体を触り、続きをしようと試みた。

はず。。。記憶が曖昧だ。だけど、オレから仕掛けたのは間違いない。

***

台所の母親の睨み(にらみ)。

これはかなりダメージがあった。

何が正しいのか、何がダメなのか、何をすればよいのか、

完全にわからなくなった。

小学生にして社会不適合者のできあがりだ。

オレに向けた目つき。

一般社会と隔絶するような母親の睨みは、

母親不信に変わった。

植え付けられたのは恐怖というより不信だった。

だが99%不信に思っていたオレは、

自分の挿入勧誘で開始することになる。

4回目の話。

もう一度やりたいと思ってしまっていた自分がいた。

あの睨まれた朝から、入れようとするまで、

どういう気持ちがオレの中を流れて4回目に至ったのかわからないが、

寝ている母親にかぶさって入れようとした。

仰向けの母親にかぶさった。

その行動に気付いてはいたが寝たふりをしていたのかわからないが、

残っている記憶では寝ていた。

細かいことは覚えていない。

どうにかミッションを遂行しようとしたが、

自分のソレは母親のソレにたどり着くことができなかった。

もっと脚を開かないといけなかったのか、

しっかり服を脱がさなければいけなかったのか、

正しいやり方をオレは知らなかった。

エロ本からの情報をその当時のオレは活かしきれていなかったと思う。

本能と母親の手引でやっていたに違いない。

だが、母親の反応は全く無かった。

オレの失言を恐れたのか、我に返ったのか、今更の罪悪感なのか、

今でもよくわからない。。。。

「〜〜〜ちゃん、あそぼー」

どのタイミングで来たかわからないが、

母親といる部屋のすりガラスの窓奥(2階の住人の部屋に上がる階段から)から友達の声が聞こえた。

近くに住んでいる友達が遊びに来た。

頑張っている最中に。

オレは用事を済ませたらすぐに出るから、

公園か、神社か、家で待っててと言ったか覚えていないが、

その場をやり過ごすため、

窓を開けないまま友達を一度追い払っている。

人間の欲求はすごいと思う。

そして再度挑戦したはず。

だけどダメだった。

そういう一連のやり取りをやらなくて良かったと思えたのは中学1年で彼女ができた時。それまではアレが何だったのか受け止めることができずにいた。

それより何より、最後に母親はオレを拒否したと思っている。

手引をし、3回も性的虐待をしたのに、

4回目は無視した。

残りの1%の不信が加わった。

完全に理解不能な母親に成り果てた。

オレだけが悪戯の全てを背負った感じがした。

オレはワルにされて、母親は逃げた。

そんな感じだった。




苦しんでいる人に向けて多くのメッセージを届けたい。とりあえず、これから人前で話す活動をしていきます。今後の活動を見守ってください(^^)