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「死にたい」は「もっと楽に生きたい」

思いを引き出すインタビュアー、鯨井啓子です。

先日、自殺願望についての記事を書いたのですが、その流れで友人と「死にたい」という思いについて話す機会が増えました。

「死にたい」と口にすること自体を悪だと罰する時代はたぶん長かったので、「そんなこと言うものじゃない!」とまわりの人にお説教された経験のある方は少なくないのではないでしょうか。

でも、私のまわりには一度は「死にたい」と思ったという人がたくさんいる。であるならば、死にたいと思うこと自体は別に珍しいことでもなんでもなくて、適切に対処すればいいだけのことなんじゃないか。タブー視することによって事態はもっとこじれているんじゃないか。と思いました。

この記事では私個人の「死にたい」という思いと向き合った経験をもとに、死にたいと感じている方本人、そしてまわりの方々に知ってほしいと思うことを書いてみようと思います。

1) 「死にたい」は「もっと楽に生きたい」
2) 心身を休めるための環境を整える
3) 自分の本音を自分自身で受け止める

「死にたい」は「もっと楽に生きたい」

よく言われていることですが、私も「死にたい」と口に出す人は「もっと楽になりたい」と願っているからこそいうのだと思っています。

こどもの頃から精神的な抑圧を続けてきた私は、アンバランスな状態ながらなんとか社会生活を続けていくために、身体と脳に対してものすごく負荷をかけていました。身体にはしっかりとした休息を与えず、精神的に不安定な状態をなんとか思考で乗り越えようとして、頭も常にフル回転の状態でした。

そんなことを続けていては絶対にいつかぽっくり行くと思っているのです。でも、頭も身体も酷使してしまっているので、身を守る術を考えて行動に移せるだけのエネルギーが残っていない。そんなときに私の口からよく出てきたことば、それが「死にたい」でした。

この状態にもっと負荷をかけ続けると、ある日突然身体が全く動かなくなる時、あるいは、ホームに入ってくる電車や道を走る車に飛び込みそうな衝動を感じるときがやって来ます。これが本当の意味での「死ぬ」です。

こうやって比べてみると、「死にたい」と口にしていた私の方がまだ、エネルギー余剰があることが見てとれます。そう考えると、「死にたい」は「もっと楽に生きたい」と言い換えることができる。だからもし、身近な人に「死にたい」と言われたら、この人はここまで追い詰められるほどに頑張ってきたんだな。大変だったな。でもまだ、もっと楽な方法を探して生きたいはずだ。と受け止めてもらうといいと思います。

心身を休めるための環境を整える

では、「死にたい」と口にしたとき、あるいは身近な人に言われたとき、まず何をすればいいのかということです。

私個人の経験では、「死にたい」と口にしたときには相当心身が疲弊しています。自分を守る方法を頭で考え、行動できているときには、まわりにSOSを出さないでもなんとかなります。そのバランスが崩れて、自分ではどうにもできなくなったときに、「死にたい」ははじめて口から出ることば。だとすれば、見た目結構元気そうに見えたとしても、しっかりと心身を休める環境を整えてあげることが、まわりの人たちができるいちばん重要なことだと思います。

具体例を言うならば、学校に行けなさそうなら、その旨をしっかり学校に伝え、ちょっと放っておいてもらう。仕事に行けないとしても、会社の人にしっかり話して時間を稼ぐ。あるいは、どこまで時間を稼げそうか、有給休暇や傷病手当など、法律や制度をしっかりと把握しておく。同じ家に住んでいるなら、ぼーっとできたり、好きな音楽を聴いたり、お菓子を食べたりできるような、自由な空間を作ってあげる。というようなこと。

学校や職場によっては「いつ頃復帰できますか?」と圧をかけてくる可能性がありますが、そんなときこそまわりの人の活躍の機会です。風邪などと違って、こういったパターンの疲弊には思っているより時間がかかるものです。なぜなら、疲弊しているのは精神と肉体の両方だから。時にはお茶を濁し、ときには交渉をし、回復までの時間を稼ぐことは頭がしっかり回っている人にしかできない。私のまわりにそんな人がいたら、ここをいちばん助けてあげたいと思います。

自分の本音を自分自身で受け止める

こんなふうに追い詰められてしまったときに、誰かに話を聞いてもらうことで回復したいと願う人がいます。それは間違いではないと思います。でも、対話は自己完結ではなく、必ず相手がいるもの。その相手は「私」ではない。だとすれば、自分の望む対応がいつも返ってくるということは難しい。逆に傷ついてしまう危険性も絶対にはらんでいます。

だとしたら。自分の本音をしっかりと自分が受け止めるということが何よりも大事なのではないかと私は思います。それは時に、ことばにならない嗚咽や叫び声かもしれない。それも出すんです。出てきてしまうのであれば。泣くのです。涙が枯れるまで。

そのうちに、「私はこれが嫌だったんだな。これで傷ついたんだな。」ということが、言語という形で自分の中に浮かび上がってくる。そうしたら、嫌なことは嫌なことされた相手に伝えればいい。自分自身で避けられるものなら避ければいい。ここまできて初めて、まわりの人たちも傷ついている当事者に対して、何をしたらいいのかが具体的にわかってくるのではないかと思います。

そうやって自分の思いを明確にしていくこと。それこそが自分を大切にすること、そして自分を守ることなのだと私は思っています。なぜなら、やってほしいことが明確じゃないと、まわりがしてあげたことが迷惑になることもあるからです。

ただ、疲弊していれば疲弊しているほど、自分の本音は見えてきづらい。時間もかかる。そして、人から反論されるとまた傷ついてしまうことがある。だから、自分が反論されても持つくらい回復してきているのかは、しっかりと判断する必要があります。持たないならお茶濁して逃げる。そんな強かな判断も大切です。

でも、それが結局「楽に生きる」道なのです。なぜなら、人のまねをしたところで楽になるとは限らないから。自分だけの「楽に生きる」道をつくって行かないといけないからです。


という感じで、「死にたい」いうところから回復するには、結構な長期戦を戦う必要があります。体力勝負です。なので、よく寝る。よく食べる。好きなことして癒される。はものすごく大事なことなのです。

そして、魂の傷つき方にはきっとグラデーションがある。だから、私の方法がすべての方にあてはまるということではないと思います。そして、傷ついている人はこれを読んで自分の中に落とし込むということがハイカロリーな場合があるので、まずはまわりの人の予備知識になるといいなと思っています。

参考にしつつ、是非よりよい方法を探してみてください。


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