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キッパリ! 「クリエイター」は、「まち」を元気にさせません! 元気にさせるのは、目の前にいる「市井の人たち」! 彼らが結果的に「クリエイター」となってしまうような「まち」をつくろう! ついでに、「まち」の「らしさ」の話も。

グランドレベル、1階づくりはまちづくり、という仕事を通して、いろんな方に会ってきましたが、こうおっしゃるかたが五万といらっしゃることに、ある日気付きました。

「今度、ここには「クリエイター」の皆さんに集まってきていただいて、ここから「クリエイティブ」な、まちになっていけばと思っていて……」

その度に、私たちは、(´・ω・`) (´・д・`)ガーンとなるわけですが、そんな気持ちはどこへやら、疑いもなく、会う人会う人、意外と同じ事をおっしゃる方が多いんですね。

そして、私たちは、その「まち」のヴェローチェへ入り、いつもこんな会話をしはじめます。

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(´・ω・`) また、あのセリフ聞いたね。どうして「まち」つくるのに、口ひらけば、すぐに「クリエイター」とか言っちゃうんだろうね? あれ「まち」に興味ないなって言っちゃってるようなもんだもんね。

(´・д・`) ほんとだよね。別にクリエイターが、あなたの「まち」に来たからって、どこかのビルの一角に物理的にスペースを構えるだけで、日常の風景は何も変わらないのにね。百歩譲って、変わったとしても、それはごくごく一部のことにすぎんよ。

(´・ω・`) たとえばシェアオフィスができました。クリエイターが集まりました。そこを中心に、他のクリエイティブな人たちが集まりはじめした。イェイ!イェイ!イェイ! 場づくりとしては盛り上がりました、ってのはあると思うわよ。その価値に恩恵を受けるひとはいるでしょう。

でも、それはそれ。それが、「まち」に影響を与えているかどうかなんて、見渡してご覧なさいよ。キョロキョロ。ね〜!(目が合った隣のおばさま)

(´・д・`) つまりあれよね。「まち」をつくる、ということを考えるときに、「まち」をつくるとは何か?を哲学しきれていないから、もう、どうしてよいのかわからないのよね。その時に、いつも安易に頼る一筋の光が「クリエイター」様というわけ。

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「すべての人がプレイヤー」の向こうに見える景色

(´・ω・`) 日本は、「まち」をつくる行政の人たちも、デベロッパーの皆さんも、学者さんたちも、根本的な「まち」の捉え方がおかしいのよね。「まち」ってのは、人が生きているわけ、人が棲んでいるわけ。そのあまねく市井の人々への視線が、何よりも「まち」を考える大きな大きな起点なのよ。ビシっ!!

(´・д・`) 「クリエイター」と同じように「プレイヤー」とか言われるじゃない。私、「プレイヤー」という言葉が生み出す構図が大嫌い。基本上から目線よね。ひとには、創造したり、発想したり、行動したり、牽引したり、得意なことは個々に違う。なのに、どうしてか「プレイヤー」という称号を得たひとが、「まち」を牽引するんだみたいな誤解が、あの言葉からはじまってるの!

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(´・ω・`) あまねくひとびとを、人間を舐めてんのよね! 私から見たら、目の前にいる0歳の赤子も、隣でカレー喰ってるおじいさんも、みんなプレイヤーよ。万人がプレイヤー! その視点をまずは持たないと何もはじまらないわよ。何千人もの人たちに、「パーソナル屋台」や「マイパブリック」のワークショプをやってきて、これはもう確信よね。この視線で、世界の都市を見渡しても、いけてる「まち」は、みんな同じ視点を持ってる。これほんと!

(´・д・`) 「みんなプレイヤー」なんて言うと「個性」って言葉が聞こえてきそうだけど、「個性」ってのとも違うのよね。「個性」って言葉は、どこか人と人とを比較するニュアンスがあったり、やっぱり強さが求められている感があるわ。私たちが言いたいのは、そういうんじゃない。すべての人は、存在しているだけで価値があるの。そして、基本何か面白い、何か引っかかってしまう何かを持ってしまっている。純粋に目の前の一人の人を愛することと、リスペクトするということ。そういうこと。

(´・ω・`) そうよね。その上で、その人が純粋に持っているものがまちに見えるカタチで表出することが「マイパブリック(自家製の公共)」よね。そのプラットフォームのひとつが「パーソナル屋台」。「マイパブリック」が、まちの他者の視界に入ると、どんなわけのわからないこと、一見無価値そうなことでも必ず小さな「会話」という衝突と、小さな「共感」という事件が起きる。この時点で、この人は小さな「プレイヤー」となり、「クリエイター」となるの。

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(´・ω・`) 『マイパブリックとグランドレベル ─ 今日からはじめるまちづくり』(晶文社)基本的な考え方は全て、ここにつまっているので、まだの方は、ぜひ読んでみて〜

(´・д・`) そうよ!だって、その時点でまちの風景の一部となり、ひとつのドラマを生み出してるんだからね。こういうことが、どれだけすごいことなのか、愛おしいことなのかぁ!!こういうことの感動の高いレベルでの共有が、私たちにとってはゲールアーキテクツの皆さんと、喫茶ランドリーのスタッフたち、そしてお仕事をご一緒させていただく皆さん以外、特に国内では少ないもんなぁ。悲しみ。。

(´・ω・`) このあたりのくだりで、こいつらなにしゃべってんだろ??って、思ってしまう人は、たぶん、「まちをつくる」ことに、関わらないほうがいいと思うわ。つまり、「まちをつくる」ひとって俯瞰して見られる力と、末端の個人の気持ちや行動が、何によって左右されるかを見極める力、どちらもが必要なのよね。鳥の目、虫の目。そこができるひとが、日本にはほとんどいないわね。だから、どんどんヘンな「まち」が今なおつくり続けられてる。

「まち」とは、「まち」を物理的につくることではないの。今まで話してきたように、そこに生きるあまねく「ひと」が、自分が持つモノを自ら純粋に表出させてしまう器(能動性を引き出すプラットフォーム)でなくてはいけないから。

(´・д・`) そそそそ!それよね!! キーマンがいて、まちが元気になりはじめるとか、あの考え方って、どこから来た神話なんでしょう? だって、日本でも世界でも強烈に惹かれる「まち」を抽出して、思い返してみるじゃない。するとそこには、巷で言うところのプレイヤーみたいな人が、きっかけだったみたいな「まち」て、ほとんどないわよ。

やっぱり、あなたが言うプラットフォームのデザイン、補助線のデザインというものが、「まち」に棲む人たちの能動性を高め、まちの1階に見えるカタチで露出し、人と人が物理的にも心理的にも交錯し合い、それが無限に増殖しているってイメージが近いわよね。

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「まち」の「らしさ」は、どのようにつくるのか?

(´・ω・`) ちょっと、ついでに「まちらしさ」の話をしてもいい? あのね。「まち」つくろうとしている人たちが、総じて「まちらしさ」が何かわかってない問題ってのがあってね。これも日本中で流行ってる大病なのよ。どうやら。この前も、大手デベロッパーの皆さんが集まって、「渋谷らしさ」について話してたんだけど、みんなてんでわかってないのよね。その「まちらしさ」って、今あなたが言ったことそのものよ。

(´・д・`) そうよそうよ!渋谷の話で言うとね。最近は、開発で大変なことになってるけど、商業ビルを建てて、一生懸命リーシングして、斬新なコンテンツをぶち込んで、面白く広告して、すごい集客と売上げをゲットしたとしても、そんなものは「渋谷らしさ」には、なり得ない。そのまち「らしさ」ってのは、結果滲みでてくるものですから! それはいつの時代も、地球上のどの都市も同じ。とても普遍的なことなんです。これいい加減、気付いて欲しいわ。

(´・ω・`) 私たちが、渋谷しかり、どのまちの開発をするにしてもすることは同じよね。つまり「喫茶ランドリー」のような能動性の器を、まちの規模でつくるってこと。そのための補助線のデザインを引きまくるってこと。

渋谷を行き交うひと、渋谷に憧れているひと、渋谷に棲んでいるひと……まさに渋谷に生きる人たちは、まちの1階で、小さくカジュアルにいろんなことにトライできる環境が無数にあればいい。彼ら、彼女たちの“小さなやりたい”を全力で応援する態勢を整える。ターゲティングやマーケティングは関係なく、自分のやりたいから小さくはじめる何かが、まちの1階に、小さな共感と共に溢れていく。その集積が総体として「渋谷らしさ」になるってわけ!これはどの「まち」も同じことよね。たとえば、みんなが好きなポートランドなんて、まさにそれがよく見えるわよね!

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(´・д・`) 小さな共感も、やがて大きなムーブメントにもなりうるわよね。それがカルチャーってこと。今、みんなが文化やカルチャーって言っているようなことを、すべてたどってみたらいいわよ。そのほとんどが、まちの1階、グランドレベルで、誰かひとりの個人が、好きなことをみんなの前で表出したことからはじまってるんだって!! サッカーだって、ラップだって、アートだってみんなそーでしょ?

(´・ω・`) この視点を、しーーーーっかり持てない限り、「●●らしいまち」なんてできません!!でね。この「●●らしいまち」をつくることに失敗すると、どうなるかって。魅力がなくなるので、いずれ死ぬことになるの。死ぬってのは、お金も落ちない、人もいなくなるってこと。

だから、今日本中で再開発されてるみなさーん!!!立ち止まるならいまですよー!!コンテンツ至上主義で、駅ビルつくり続けたら、数十年後大変なことになりますよー!!さらに、それを積み上げたもの。それがつまり「日本らしさ」なんですよー!! このままだと、それすらも失ってしまいかねません。そういう点からしても、日本は世界的に見て「らしさづくり最貧国」まっしぐら。でも、まだ今なら間に合うはず!

(´・д・`) 「らしさ」の話だとさ、逆に、自分たちの棲む「まちらしさ」を考えよう!ワークショップとかやるひとたちいるじゃない? あれもおかしいわよね。だって、そのまちの意識高い系のひとたちだけが集まって、付箋に、「これが私のまちの魅力!」とかを書き出すわけでしょ。これも「らしさ」が何によってつくりだされているかを問うという根本がおかしいってこと。

なんで、そんなことで、決定されなくちゃいけないのよ。「まち」って、そこで何が生まれようが自由じゃないの。そこに少しでも蓋をするようなことはすべきではないわ。安易な「らしさ」の定義が、未来の「そのまちらしさ」大きく阻害しかねないということを、どこかで思っていないとね。

(´・ω・`) そーなの。。「らしさ」は、自分たちの「らしさ」を認識して、強めていくものではなく、結果として育まれていくもの。京都らしさも、ポートランドらしさも、どのまちもそういうこと。それが時が経って、自然と会話の中で、僕らの住むまちらしさってこういうことなんだよねって言えるようになったとき、それはほんとうに素晴らしい「まち」に成熟したと言えるわ。たまにNHKの「世界街歩き」の番組では、そういう話を淡々としはじめる市民が写るときがある。あれ、いいわよねぇ〜。

(´・д・`) あれは毎回感動するわよね。確かに、あの人たち、付箋で「らしさ」を抽出〜〜!!とか絶対してないわ笑。

(´・ω・`) 付箋ね。。私たちの大嫌いな付箋。。実はアイデアを封じ込めさせている付箋の話は、また今度しましょーかね。

(´・д・`) 今回、勢いでこんな風に書いてみたけど、むか〜し、一番最初にいただいた連載のお仕事「mosakiのイベント巡礼」(日経アーキテクチュア)を思い出すわね。

 (´・ω・`) そうね。この形式だからこそ、伝えやすいこともあるわよね!また、気が向いたらやってみましょーか。

というわけで、今日はこの辺で。

日本の新しい開発、新しいまちづくり、新しい1階づくりを一緒に考えていきましょう!

1階づくりはまちづくり。

大西正紀(おおにしまさき)

ハード・ソフト・コミュニケーションを一体でデザインする「1階づくり」を軸に、さまざまな「建築」「施設」「まち」をスーパーアクティブに再生する株式会社グランドレベルのディレクター兼アーキテクト兼編集者。日々、グランドレベル、ベンチ、幸福について研究を行う。喫茶ランドリーオーナー。

*喫茶ランドリーの話、グランドレベルの話、まだまだ聞きたい方は、気軽にメッセージをください!

http://glevel.jp/
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