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「あたりまえ」が生み出すもの、あるいは傷つけるもの。

家に帰って「ただいま」と言える人がいるのは、とても素敵なことだ。「おかえり」と返事がかえってくることは決してあたりまえじゃない。

先日、通販でしおり(ブックマーク)を買ったら、お店の方からの直筆の手紙が同梱されていた。「コロナに負けずにいきましょうね」というエールだった。温かな気遣いは、業者の方にとっても手間かもしれない。でも、このあたりまえでないことが、僕の胸を熱くした。

よく考えてみると、あたりまえをめぐる、ちょっとした一幕は日々、おとずれる。

「あたりまえ」は社会をかたちづくる大切な要素だ。宅配で家に来る人を僕たちは偽者でないと、基本、信頼している。マクドナルドの店員には、あたりまえのように「マクドナルドの店員らしさ」を求めるし、笑顔で「いらっしゃいませ」というだろうと信じている。エスカレーターが急に止まらないとも信じている。エレベーターに乗った相手が急に殴ってこないと信じている。僕たちは、それら信頼を無意識のところにまで沈めて、「あたりまえ」とすることでスムーズな社会生活を送っている。

「あたりまえ」があるから、Amazonの商品が翌日には届くのだ。

でも、あたりまえをあたりまえだと思って平気でいると、時にそれが感性を鈍くさせて、他人を傷つける言動につながったりする。「あたりまえだよね」「わかるよね」を前提にしたコミュニケーションが夫婦関係を悪化させる第一の要因だとはよく言われることだけれど、それでなくても、レストランのウェイターのちょっとした失敗にめくじら立てて怒り出したり、人身事故の電車内で遅延にキレたりと、他人に「あたりまえさ」を強いて、それに反するから「いらだつ」みたいなことが起きてしまう。

コロナは、そういう「あたりまえ」の「あたりまえでなさ」を教えてくれた。それはドイツのメルケル首相の以下の言葉にあますところなく表現されている。

「スーパーマーケットに向かうすべての人に言いたいことがあります。ストックすることは合理的です。これまでもそうでした。しかし、ほどほどにしてください。買いだめは、決して得になることはなく、無意味で、究極的には反連帯的です。

ここで普段、感謝されることのない人々に感謝の言葉を述べさせてください。スーパーマーケットのレジに座ったり、商品棚を埋めたり、今、最も厳しい仕事をしている人々です。ありがとうございます。あなたは市民のためにそこにいて、文字通りの意味で店舗を回しています」(リンクは下方)

僕は、コロナが来るまで、食べ物がスーパーで買えることをあたりまえと思っていた。物流が滞ることはまずないと信頼していた。品物が常に棚の最前列に寄せられているのも当然視していた。何なら、毎日たべるヨーグルトが商品棚の奥にされたままになっていると、瞬間、いらだちを覚えることすらあった。コロナがなければ、ごみ収集をしてくださっている方々にこんなに感謝することはなかったし、宅配の方々に敬意を感じて手紙を書くこともなかったと思う。うちの子どもたちからこれを受け取った方々はどう感じられただろうか。

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あたりまえは社会の前提だ。でも、あたりまえに固執しすぎて、また「あたりまえ」を他人に強制することによって、人間関係はぎすぎすしたり、壊れたりする。あたりまえは、時々、「あたりまえでない」ことを思い出すことで、よりよい「あたりまえ」になる。

そういった心がけがあれば、もしかしたら、通販のちょっとした手紙の「あたりまえでなさ」を生み出すような発想が天啓のようにあなたの頭におとずれるかもしれない。喧嘩していた友だちと、仲を戻せるかもしれない。夫婦関係が変わるかもしれない。職場の人たちに感謝の気持ちが芽生えるかもしれない。

「あたりまえ」を「あえて意識すること」を、あたりまえにできたら、いいな。


[引用]





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