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【本の紹介】小山田咲子(2007/2016)『えいやっ!と飛び出すあの一瞬を愛してる』海鳥社

忘れられない本がある。『えいやっ!と飛び出すあの一瞬を愛してる』(海鳥社)という本だ。

その本について、僕は2009年8月29日に、以下のような文を書いている。あれからもう14年が経ち、僕と著者の咲子さんとの年齢差は広がるばかりだが、今も大切な一冊であることには違いない。

今は研究室のHPにひっそりと載せている状態だが、思い立ってnoteに採録しておこうと思う。

(以下、過去の文章より引用;小見出し、ミス修正、段落分け、句読点等の変更あり)

「人」としての本書との出会い

ここに一冊の本がある。『えいやっ!と飛び出すあの一瞬を愛してる』(海鳥社)。著者は小山田咲子さん。異国アルゼンチンを旅行中、同乗していた車が事故。24歳でこの世を去っている。ここ2年参加しそびれていた読書会でこの本が取り扱われ、それがこの本を手にするきっかけとなった。

僕の第一印象というか、この本に対する感覚は「本」ではない。むしろ、「人」と面している気になってしまう。まるで、同じ年ぐらいの学生を前にしているように。この人からこぼれてくる言葉ははつらつとし、時に激しく、時に繊細で、彼女を取り巻く世界を見事に言葉で表現してみせている。

とうとう僕は最後までこの本に線を引くことはおろか、ページの端っこを折り曲げることもできなかった。何も書かないページがないくらいに本に線を引きまくり、折り曲げていないページよりも多くページの端を折り曲げる僕がである。やはり、僕にとってこの本は「人」のような本なのだ

ブログ日記とは①:匿名性と固有性

本書はいわゆるブログ日記である。「ブログ日記」という言い方だが、これまで普通に私たちが行っていた(かもしれない)日記というイメージでとらえるならば、それは大きな勘違いとなる。

「日記」という言葉が示すように、日記とは、その「日」の出来事を「記す」ものである。形式としては、「○月○日、~をした」という記述が並ぶ。それが日記である。しかし、大袈裟にいえば、日記とブログ日記の共通点はこの形式的な定義のみである。普通の日記を書く人の「感覚」とブログを書く人の「感覚」には決定的なズレがある。

日記とは普通誰かに読まれることを想定していない。しかし、ブログの場合、むしろ誰かに読まれるであろう、という想定がある。まずはこの出発点が違う。しかも、ブログの場合は少し複雑で、普通は「不特定」の誰かに、もしくは「誰か」は想定されているがそれはあくまでも大枠の対象にすぎず、一人一人が固有の顔をもった誰かではない。

しかし、だからといって、ブログが完全な匿名な誰かに対して書かれるとは限らない。人によっては、また日によっては、特定の誰かが読んでいるであろうという他者の視点を計算したうえで、匿名性を装った形で「その人」に書かれていることもある。逆に、特定の誰かに書いているようで、でも本当の対象はその人とは別の「特定の誰か」である、ということもある。

ブログを書く人の「書く」というコミュニケーションは、このように「匿名性」と「固有性」の挟間で他者の視線を織り込みながら展開する、独特のコミュニケーションなのである。であるから、ブログとは単に「日記」をウェブ上に書いているのではなく、ウェブという独特のコミュニケーション空間そのものが人々のコミュニケーション形式を形作り、彼(女)らの書くという表現におけるリアリティを決定づけている。

ブログ日記とは②:構え・目的の多様性

事態をさらに難しくさせるのは、ブログ日記といっても千差万別で、ほかの人から見れば全く書く意味がないような些細な事実を羅列しているものもあれば、悪口を担保に特定の人々と群れるために展開しているものもある。と思えば、非常に即出版可能な口調でまとめられたそれ自体が一つの作品のような完成度のものもある。

ブログは「匿名性」と「固有性」という連続体のほかにも、「気分-思考」や「つながり-排除」というような、それを書く人の構えや目的にも多様性があるのである。それらすべてを飲み込み、許容する巨大な仮想空間がウェブというコミュニケーション空間の特徴である。

ブログ日記とは③:書き直せる

もう一つあげておくべき特徴は、ブログは「書きなおし」が可能である、ということだ。日記は誰にも読まれないという想定の下、今の自分とは別の「自分という他者」に向けて一発勝負で書いている。日記を書くにあたり普通下書きはしないし、話にオチをつけなければいけないという制約もないし、書いたものを推敲を重ねて作品のようなまとまりを求めるものでもない。

しかし、ブログはタイプして書きこむのが普通なので、書いたものを切り貼りしたり、自由自在に挿入・削除することが可能である。誰かに読まれることが想定されているという意味では、ブログにはストーリーが求められたり、オチがあったり、必要によってはメモ書きが必要となる。鉛筆でコリコリと書くというのではなく、画面に向かってひたすらタイプするというコミュニケーション行為もブログ日記の特質を決定づける一要因といえよう。

ブログというコミュニケーション形式がひとつのお話として書かれることを求める形式であるとすれば、ブログ日記の評価は分かれる可能性が高い。それを「日記」と見るなら、それは生き生きとしたその人の声やぬくもりが残る、その人の化身であるように思える。しかし、それを「作品」として読んでしまうならば、そのほとんどは「つまらない」未完の作品のものが多いということになるだろう。

小山田咲子さんのブログ日記

では小山田咲子という人はどのようなリアリティを持ってブログを書いていたのであろうか。ちょっと想像してみた。

僕にとっては、彼女はあたかも新たな表現手段を得たように、生き生きとウェブ空間の中を泳ぎまわっているように思える。ある時には取り留めもないことを記し、またある時は特定の他者が読んでいるだろうという想定のもと書いているようにも読める。その一方で、非常に普遍的なメッセージをそれをたまたま読んでくれるであろう人に向けて「発信」している。そしてそこに書き込まれることの多くは、やはりタイプするというスタイルによってストーリーが与えられ、プロットが存在するように書かれている。その意味ではこれは従来の「日記」とは全くことなる作品集ということになる。

僕にとっての本書の良さは、何よりもまず、「日記」としてのブログでみせる彼女の「感性」がそこにあると同時に、作品としての魅力も詰まっている、という「日記」と「作品」の両方の「いいとこどり」であることにある

確かに「作品」として見たとき、それは「荒挽き」かもしれない。でもかえって、荒挽きであるために作品にみられるかもしれない「うそくささ」や「うさんくささ」が見られない。だからこそ僕はこの本を「学生」と話をしている気分で読み、彼(女)らだけが持っている輝きをそこに見出したのだと思う。

小山田咲子さんの「感覚」

小山田さんは自分が自己という「内側」に閉じ込められているという自覚をした上で、内部に閉じこもるのでなく、自己という「内側」にいながら「外=世界」に向けて言葉を一生懸命投げかけている人だと思う。

彼女には「結局のところ世界はこんなもんだ」という(僕も陥りがちな)独我論的な断定が少ない。それは、自分が自己の中に閉じこもっているという意味で、世界とは断絶された存在であるという意識があるからではないか。だから彼女は世界を語るとき「想像力」という言葉を多用し、それを媒介に「世界=外部」へと触手を伸ばそうとがんばっている。「えいやっ!」と言って、世界へ足を踏み出そうとしている。

「見る前に飛べ(Leap, before you look.)」という表現があるが、彼女にはそんな勇気があるように思える。彼女はカメラが好きだったが、それはとても象徴的な行為だ。カメラには必ずそれを通して覗く人がいる。それはカメラを使っている本人であり、そこから覗いて見える景色は「世界そのもの」では決してなく、常に、自分が向けた視線によって切り取られた、手あかのついた外部である。

とはいっても、読書会に出るまで知らなかったのだが、彼女が自分の「外の世界」と接続しようとするとき、その接続の仕方は必ずしも器用なものとは言えなかったようだ。運動神経が良かったにも関わらず、他の人が決してしないような動きをする。

「自己-身体-世界」と並べたとき、「身体」は自己と世界を結ぶ媒介または境界線であると言える。それは世界の一部でありつつ、自己の一部でもある。彼女の場合、もしかしたら自分の身体でさえも世界の一部に属する「他者」であったことを知っていたのではないか、と思ってしまう。普通の人が身体は自己のものだとするところも、その身体と自己の間にも実は断絶があるということ、その接続の恣意性を無意識ながらに知っていたのではないだろうか。彼女にとって身体とはすでに記号化していたのである。

「意識」の問題にしろ、「身体」の問題にしろ、そう考えてみると、小山田咲子という人は若き「現象学者」ではなかったか。彼女はフッサールであり、メルロ=ポンティだったのではないか。そして、彼女の生き生きとした文章、文体、感性は彼女の現象学者としての素質がもたらした結果だったのではないか。僕はそのように想像せざるをえない。

弟・小山田壮平君(元andymori)

先日僕の研究室ブログにandymoriという3人グループのミュージシャンに触れた。彼らはまだインディーズであるが(*当時)、現在人気急上昇らしい。これも読書会に行って知ったことであるが、小山田さんのかわいがっていた弟さんがVo&Guということだ。

本書の中で彼のことが時折登場することや、彼が歌っているときの顔に咲子さんの面影を見てしまうこともあり、彼らが奏でるような音楽を普通聞かない僕もつい聞き入ってしまう。これは僕の先入観のためなのか。それとも彼らに咲子さんの文を読むときのような魅力があるからだろうか。僕にとってこの本が「学生」のような存在である限り、僕は彼らの音楽自体も同じように冷静に聴けないのかもしれない。

小山田咲子さんに出会ってほしい

この本を見ていると寂しさと胸のきしみを覚える。それは才能が惜しいという意味ではなく、自分の学生が天に召され、引き裂かれてしまったような感覚に近い。この本はいつになってもそのような感覚を僕に抱かせる本であり続けるだろう。だからこそ、一人でも多くの学生に本書を読んでもらいたいし、小山田咲子さんに会ってもらいたいと思っている。

(以上、引用終わり)

後日談と補足

この話には、後日談がある。実は、ご縁あって小山田さんのご両親がこの文章を目にされたそうで、お母さまから連絡をいただき、わざわざ研究室にいらしてくれた、ということがあった。つまり、咲子さんと壮平君のお母さまということになる。その時にはandymoriはメジャーデビューし、人気バンドとして活躍していた。お土産として、Tシャツとコイン入れをいただいた。

僕にとっては本書が人のようであったと書いたが、お母さまとお会いして、本書はさらに、お母さまがおなかを痛めて生んだ、人のような本になった。

andymoriは解散してしまったが、壮平君はソロやバンドでがんばっている。僕もTwitterをフォローし、陰ながらご活躍を応援している。

andymori時代の曲にpeaceという曲がある。そこにこんな歌詞がある。

  姉さん 会いたいよ いつでも思ってるよ

この歌を聴くとき僕の頭には、咲子さんの文章のなかに登場する、ギターを部屋で練習する弟君と(勝手に想像した)その部屋の風景が浮かんでくる。もちろんその部屋には、ギターを弾く壮平君を座って見守っている咲子さんの姿もある。

この歌詞が歌われるとき、僕の胸は一瞬チクリと痛む。壮平君はどんな気持ちでこの歌詞を歌っているのだろうか。

本書は、私の勤務大学の図書館にも入れている。本学の学生がこの記事を目にしてくれたら、ぜひ小山田咲子さんに出会いに行ってほしい。僕が紹介した人生の先輩だと思って。

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