フレフレみんな、フレフレあたし。

昨年の夏からカレーの学校に参加してみて、自分の環境や心境にも、いろいろな変化があったように思う。

それは一体どのようなものだったのだろうか?

そんなことを改めて確かめるために、Facebookのグループページを開校の頃から順に並べてみた。それぞれのポストをすべて追いかけることは、量が多すぎて叶わなかったので、皆が投稿した「写真」に限定して、時系列順にずらりと並べてみる。

そう、なんとなく分かっていたことではあったのだけど、そこにはカレーというキーワードの元に、明るい笑顔の写真がたくさんたくさん集まっていたのだった。しかもスクロールするごとに、上へ上へとその数が増えていく。

ずっと追いかけ続けると、個々の誰がと言うよりも、全体からの反射した光の塊を感じるような、そんな不思議な感覚になっていく。

もちろん、台風の目となる水野さんやリーダーの写真は、とびきりチャーミングで抜群にキャッチーだ。しかし、その周辺を巡る生徒さん達の、なんとのびのびとした「らしからぬ」表情の多いことだろう。

なんだかそこには、みんなの素の表情がひょっこり顔をだしてしまったような、そしてそれを通りがかりにうっかり覗いてしまったような、少しだけ照れくさいような嬉しい風景があった。

そうそう、話がそれてしまったのだけれど、最初は自分の変化についての話でしたね。その変化については、はっきりと分かっている事がある。

変化が起きたのは当たり前で、学校に入る前の自分の現状をずっと変えたいと切実に願っていたから。そう、みっともないほどセツジツに。

そんなセツジツなる自分としては、実はカレーの学校と同時期に通っていた別のクリエイティブ系のスクールがあった。しかしこちらは年配の偉いクリエイターの先生によるトップダウン型の校風だった。

最初は「●●の為には●●しなくては」といった辛いながらも自分を鼓舞するような気持ちで擦り合わせようとしたものの、その校風が徐々に肌に合わなくなってしまい、もうどうしようもなく途中からは気持ちと足が向かわなくなってしまったのだった。

今考えると、実践を行いながら厳しく鍛えられる以前に、その時の自分に圧倒的に不足していたのが自分を信じる心だったように思う。物事の順番を間違えてしまったようだ。

一方で、カレーの学校は何故だかわからないほど伸び伸びできて、ただ楽しかった。そこには誰かのチャレンジに対しても、まずは応援し合うようなフラットな土壌がマジックのように存在していた。

改めて考えてみると、その違いがどこから来たのかははっきりしている。

それは、水野校長が学校を運営する上で一番大事にしていると言っていた「他人の批判をしない」というルールの賜だ。このルールが、生徒の皆にも自然と浸透し、それぞれのプレーヤーとしての活動をポジティブに護る魔法陣のように機能していたのだと思う。

そこには、お手々を繋いでゴールするような馴れ合いが蔓延し、お互いを高め合えるようなクリエイティブな活動は生まれなかったのか?皆さんはもちろんご存じだと思うけれど、不思議なことにそんなことにはならなかった。

つまらない日常に、変化をおこしたい。
なにか面白いことって起こらないかな

その為に避けて通れないのは、やっぱりまずは自分が主体となり、おぼろげながらも自分なりの一歩踏み出してみること。つまりプレーヤーになることなんだと思う。

笑われても恥をかいても、持っているものでまずは自分なりにやってみることからしか世界は広がらないのかもしれない。

そんなとき、創造性を阻むものがあるとしたら、その正体は「恐怖」なんだとふと気がついた。「恐怖」とは便利なツールでもあって、割と簡単に他人を規制しコントロールするときに役立つもののようだ。

現在のカレーの学校は、幸福なことにそんな恐怖は存在しないように思える。カレーはコミュニケーションに使うツールであって、恐怖で人を動かすツールではないのだ。

幸せな状態はいつまで続くのだろう?だけどそう考えるのは野暮なことかもしれない。恐怖だって自由だって、うっかりするとどっちにだって転ぶことはあるものだから。

だからこの言葉を最後に。これからも、フレフレみんな、フレフレあたし。選ぶことはきっとできるはず。

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