見出し画像

起業してからの後悔と反省:​僕が起業した理由〜大学を卒業してからメディアの仕事をするまで〜

起業してからの後悔と反省:​僕が起業した理由〜大学2年生の思い出〜では、彼女と別れて、単位も落として辛い学生生活に突っ込んだことは書いた。

それから今、やっているメディアインキュベートでの仕事に至るまでには、少し時間がかかる。僕は大学に入ったのは、メディアを学びたかったからだ。高校生時代から記者になりたかった。

中学校の頃からか、野球選手になりたいものの、難しいと思い、でも好きなスポーツには携わっていたいと思った。そこで、本を読むことが好きだったので、記者になりたいと思ったのだ。

本を読むのが好きだと思わせてくれたのは、中学生時代の田中邦子先生のおかげだ。なんとなくだが、小さい頃からか、女性の少しぽっちゃりした人に助けられてきた記憶がある。あくまでなんとなくだ。それで、そういう方を見ると自然と優しい人なんじゃないか、とよくわからないことを思う。高校時代も大学には、推薦で入った。準備が足らず、困っていたところ、担任をしてくれていた土屋先生が、参考書などのアドバイスをくれた。それで、なんとか受かることができたように思う。ありがたい。

高校時代にも海外での戦争の映像を見て、自分も戦場記者になって、ピューリッツアー賞を取るような人になりたいと思った。世界で、知られていないことを、少しでも知って欲しいし、そこに不公平を感じたからだ。

そうして、大学ではメディアを勉強しようと、入ってからも学生記者などをやったり、新しい学部であったので、学部PRの活動をしていた。

大学自体の学生新聞もやりたいと思っていた。しかし、その当時は、スポーツだけでないこともやりたいので、スポーツが強かった私の母校は、そっちの報道が強かったこともあり、入ることはなかった。当時は、毎日スポーツ紙をネットでチェックするくらいに好きだった。だが、やることはなかった・・・なぜだろう・・・。

段々と、経済や政治に興味を持つようになった。単位をたくさん落としたこともあり、バカにされるのも嫌だし、悔しいので、とにかく毎日図書館にいた。メディアに関心があったので、社会学系の本をよく読んでいた。後は、コンサル関連だったり、金融や経済の本を読んでいた。将来どうなるんだろう、俺はどうやって生きていったらいいんだろう、と悩んでいた。

当時ハマっていたラジオが「文化系トークラジオLife」で、本当に毎回更新が楽しみだった。僕にとって、本当に心が安らぐ時間だった。本当に助けられた。救われる時間だった。このラジオをきっかけにどんどん社会学の本も読むようになった。荻上チキさんのラジオも大好きで、当時はTBSラジオばかり聴いていた。なので、そのプロデューサーである長谷川裕さんにお会いできたときは、本当に感激した。なんか不思議な気持ちだった。この時の経験が、radikoの仕事をすることにも繋がった。人生、何があるかわからない。

そんなこんなはあるが、大学時代は、とにかく本を読みまくる生活になった。当時、少しだけ付き合っていた彼女(一つ上のエステティシャン)に「男は金だ」と言われて、色々価値観も変わった。ある一定、当たり前だけど、稼がなきゃいけないよな、と。俺は、当時はバンドマンや、EXILEみたいになりたくて、歌手になりたいと思っていた。本気で思ってた。決めたら曲げない?性格なのかもしれない。母さんに似たのかな。

そんな母さんには、俺の就活や、こんな好き勝手な生活の影響を受けて、本当に迷惑をかけた。俺のせいで母さんの人生を変えてしまったと思う。今日は実家に帰っている。母さんから色んな告白を受けた。俺は…本当になんてことをしてしまったのかな、と思った。

俺が彼女と別れて、ショックで家を飛び出したことで、単位が苦しくなったことで、就職活動も苦しくなり、学校も卒業できるか、危ないくらいだった。結果的には、卒業に必要な単位を40超えるくらい取って、卒業したが、なんだったんだろう、もう少し要領よくやればよかったな、と思う。それで大分苦労した。苦労ではないかもしれないけどね。アホすぎるが、奨学金をもらっていることも、途中でちゃんと認識して、自分で返さなきゃいけないことを知った。アホすぎる。やばいって思った。

結果的に、両親を一番安心させたくて、内定をもらった中で一番大きな会社に就職した。すごくいい会社だった。今でも感謝している。しかし、俺は機械が苦手だった・・・新卒は、建設機械の営業だった。

とにかく毎日怖かった。車の運転も苦手だ。危ないことは極力したくない。なのに、なぜか建設現場に毎日飛び込みの日々。そして、機械を運んだり、触ったり。本当に辛かった。きつかった。しんどかった。でも、辞められなかった。俺が辞めたらやばい。家族にも迷惑をかける。これ以上迷惑をかけられない。稼がなきゃならない。やりたいことをやるにしても、言い訳ばかりで、成績を残していかないと、たどり着くこともできない。逃げたかった、けど、なんとかするって、やりきったと思う。工夫して、どうやったら成績が出るのか、毎日頭をひねった。優秀な先輩にくっついて、真似して、とにかく観察した。営業の本も読みまくった。

FAX文化が残る建設現場で、どうやったら数字を残せるんだろう、と考えていた。うまくFAXを使って、効率的に営業をしようと思った。お知らせなどを事前に作っておいて、送って、それから訪問するなど。そこからインバウンドで注文をもらえることも何度となくあった。

そして、訪問数は全国でもかなり多かったと思う。日報を入れている人の中では・・・笑

一時期は全国で2番目になったのも記憶している。とにかくガムシャラだった。新卒から少ししか経っていないのに、転職活動もしていた。いろんな会社を受けた。毎回、茨城県の水戸から訪問するのは、本当にしんどかった。遠い。とにかく遠い。証明写真を撮って、会社近くで貼ったのを思い出す。スーツも普段着ていなかったので、そんな姿を会社に見られたら、怪しまれると不安だった。休みは読書と、仕事と、転職活動が中心だった。

当時から金融が好きだったので、上田ハーローの内定をもらえそうだった時は、とてもワクワクした。今でも神谷町に行くと思い出す。入りたかった・・・FedExも最終面接で落ちた。当時の回答を思い出すと恥ずかしい。CCIさんも受けた。入りたかった。今、仕事をしたりして、なんか不思議な感じだ。Flipboardや、HuffPostの仕事がしたかった。懐かしい。

そんなこんなである商社のグループ会社に拾ってもらった。2012年の9月だろうか。スーツで通った。とにかくスーツで仕事ができるのは嬉しかった。スーツでなくていいよ、と言われてもスーツで仕事をした。とにかく嬉しかった。

初めてのWEB業界だった。まず、CTR、eCPMとCPMの違いがわからなかった。なんなんだろうと毎日思ってた。大学時代に培った?!図書館に行く習慣で乗り越えた。昼休みもいつも本を読んでいた。少しずつ分かってきた。TBSさんに行ったり、日刊ゲンダイさんに行ったり、とっても楽しかった。夢のようだった。

ある程度、仕事を覚えてきた時に、上司から「僕は記者になるのが夢で、ずっとメディアさんと仕事がしたかったんです」と話した。なら、「日刊ゲンダイさんの担当になってみる?」と言われた。

「ぜひ、やらせてください!!!!!!」

そこで初めてメディアの仕事をすることになった。