フェスティバルに恋をしてー2000年〜2001年  天国はあった ー

1999年にインターネットで知り合った関西在住の女の子とメールをやり取りして、音楽の話題で意気投合し、いつの間にか「フジロック行きたいねー」とか話していた、彼女が仕事の出張で東京に、会って2000年のフジロックのフライヤーを見ていたお台場のレストラン、ウエイトレスの娘が我々の席を見て「フジロック行くのですか?」と話しかけてきた

僕等はビックリ、今でこそフジロック、夏フェスという夏の過ごし方が定着しているが当時はフジロックもまだ音楽マニアの間でしか話題になっていないイベントだった「いやね今年行くか迷ってるんです」『行った方が良いですよ、私はまだ行った事無いんですけど、友達が去年行ったんです、もう最高だったって!7月に行って、年末までフジロックの話ばかりだったんですよ、それくらい楽しかったって』そう言って彼女は我々のテーブルから離れた、僕等は顔を見合わせ「やはり行く?」とかなり前向きに検討していたが、彼女の好きなバンドがその年から始まったサマーソニックに出るから、そっちに行くとの事で、メンツも魅かれないしねーという事で、でも半年もフジロックの話で持ち切りだったと言うウエイトレスの話が何処か引っかかり、2001年何とかフジロック行けないだろうかと考えた、とりあえずメル友の彼女は「メンツ次第で考える」との事、そんな時あるネット掲示板のロック好きが集まると言う飲み会の書き込みが気になり2001年1月、高円寺で開催される飲み会に申し込んでみたのだ

オルタナティブロックを好きで居ると、悩みは兎に角音楽の話出来る人が周りに居ない、というね、まぁライブハウスを埋めるのがやっとの外国のバンドが好きなんて変わり者だよね、その高円寺の飲み会に参加したら「明日のティーンエイジF Cのライブ行く人いる?」なんて、ハイハイ行きますよチケット持ってます(笑)まぁ兎に角楽しかった、まぁそうしてフジロック皆で行きましょう!なんて話になって

そうして2001年フジロックのメンツが発表となり、驚いた、オアシス、マニックス、トラヴィスそれだけでもなんだが、レジェンド枠はニールヤング、ニューオーダー、USシーンからはエミネムにトゥール、一緒に行く仲間も出来た、メンツ最強、もう行くしか無い、しかし行くまでは本当に大変だった、いくら仲間になったとは言え、年代も住む所も職業もバラバラのアカの他人を数台の車に乗せて苗場まで行く段取りは大変で、もう5月位から毎日パソコンのメールでやり取り、週末に会って話し合い、テントも共同で購入、テント設営の練習、個人でも用具などを揃えてフジロック前の週まで駆け回っていた、でもそれらはまだ楽しかった、大変だったのが仕事、何せ当時ウルトラブラック企業に勤めていた、働き方改革なんてまだ先の2001年、「苗場行くの?夏でもスキー出来るんだ?」なんて言われるくらい当時はまだマイナーなイベント、「何?4日も音楽イベント行くから休む?帰ってくんな!」と出発前日に休み中の事お願いしに行って、そんな事を言われる始末、同じ部署の人にも平謝りしてようやく迎えた前日の夜、車に荷物詰めてハンドル握った瞬間ようやく行けるという事を実感した、さぁ仲間が待ってる待ち合わせ場所の吉祥寺へ

のんびりと一晩かけて苗場に向おうという予定で、時間の余裕を見て出発したのだが、テンションは上がり、ドンドンと先へ、月夜野インターで関越を下りて、国道の山道をスイスイと、三國トンネルを抜けると苗場の宿場街、フジロックの旗が電灯に掲げられワクワクが止まらない、駐車場に滑り込み車を降りて目に飛び込んだのは圧巻のライトで照らされたキャンプサイトのテント群だった、既に前夜祭から乗り込みテントを場設営してくれていた仲間に連絡して迎えに来てもらう「朝方の到着じゃなかった?」と夜中に叩き起こされ迷惑そうに目を擦りながら来てくれたが、もうこっちはハイな状態で来てるから(笑)

テントで就寝し朝、まだ他の仲間は寝ていたが、隣の大学生の男の子がガサガサやって居て「起こしてしまってごめんなさい、腹減ったんで何か無いかと」「俺も腹減ったからキャンプサイトの入り口にあった屋台に食べに行かない?」と誘いテントを出た、眼下に広がったのは広大な会場と取り囲む大自然の山々、少し立ち尽くした、ここ数年仕事ばかり、ようやくライブとか行き始めて、仲間も出来てたどり着いたフジロック苗場、「どうしました?行きましょうよ、腹減りました」と大学生に急かされ我に帰る、浅貝川の辺りでカレー食べながらも苗場を眺めながら感動していた

そうして遂にフジロック2001、開場の時間となりとりあえず奥のフィールドオブヘブンまで行って見ようと、数人の仲間で会場を散策、ゲートを入ると大量のトイレ、左方にレッドマーキーの赤テントが見え、オアシスフィールドの屋台群、さらに進むとフジロックの顔とも言えるステージ、グリーンステージと広大な観覧スペース、更に奥に進むと物販テント、既に長蛇の列だった、Tシャツも欲しいが後で良いかな、しばらく林道を歩くと当時はまだ数件の屋台しかなかった、ところ天国、橋を渡るとホワイトステージが見えてきた「思ったよりグリーンとホワイト距離あるなぁ」この2つのステージを往復する事が多い予定だったので、常連の人が言ってた「そんなに予定通り観られないよ」という話は本当だったな、ホワイトの脇の坂を登るとアバロンフィールド、屋台やNGOの出店スペース、そうして小さなライブステージ、右の林道の坂を今度は下る、フィールドオブヘブンが見えてきた、オーガニックでピッピーなステージ、当時はここが最深部だったフジロック会場、山なので起伏もあり、ここまで来て思ったより疲れた、「マーキーのガーリング見るのならもう向かわなきゃ」と1人が言い出した、休む間もなくまた逆方向へ、「こりゃ体力もキツイなぁ」と思いながらレッドマーキーへ戻ると直ぐに、オーストラリアのバンド、ガーリングのライブが始まり若い子達は「すいません!前に行って踊ります!」と前方へと、疲れたので後方で見ながら飲み物買いにオアシスへ一旦向かう、一服した後また仲間に合流しようと携帯で連絡するが繋がらない!あれ?そう電波が無いのだ、自分のキャリアの携帯だと電波が無かった、ここは山奥だもんねーようやく仲間を見つけた「au繋がらないみたい…」もう連絡は諦め、それぞれの御目当てのステージへと向かった「会えたら会いましょう!」

携帯も繋がる所はあった、タイミング良い場所でメル友の女の子から連絡入る、彼女も関西から苗場に来ていた「今着いた!何処居る?」考えてみればこの娘がここに来るキッカケ与えてくれたんだよなぁ、フジロックなんて夢のまた夢と思ってたのに、と思いながら合流、そのままエイジアンからオアシスまで一緒に観よう!という事でグリーンにへばり付いた、ADFで踊りトラヴィスで浸りマニックスで叫んだ!「コレでまだオアシスあんのー」嬉しい悲鳴だ、オアシスのセトリは前年見たジャイアンツツアーと全く一緒だったが、この環境で聞くオアシスナンバーは格別だった「最高だったねー」と終演後オアシスエリアでフジロック初日の打ち上げをしてテントに帰る、仲間達が「まさみちさん、どこ居たの?全然見かけなかったし」と「後半はグリーンに居たよ、前のモッシュエリアの柵の外側に」「一緒にオアシス見ようとか言ってたから探したのに」と悪いがオッサン等と見るよりはメル友の女子と見るさ(笑)


2日目、徹夜の運転と初日の疲れがどっと出て「今日は午後のパティスミスからにするよ」って言い寝ようとしたが、テント内は朝日が上がると暑くて居られなかった、仕方無しテントを出て出陣、他の仲間は筋金入りのロックマニアで、朝からアレ見るコレ見ると計画を立て、会場内を動き回っていた、自分はさほどのマニアでもなく、この仲間内ではミーハーな部類の音楽ファンである、正直ガチガチに見たいのが押し詰まっている訳でも無い、美味いフェス飯をほうばりながらアバロンに行くとパティスミスのポエトリーリーディングをやって居た、「原爆を投下してすいません、アメリカ人として謝罪します」みたいな事を言って居た、音楽だけでなくこういうのも見られるフェスって良いなーと思いながら、やがて連絡が入り昨日同様メル友女子と合流、「見たいのがある、まさみちさん暇なら一緒に」とアタリティーンエイジライオットのアレックエンパイアのソロステージ、コレが楽しくピョンピョン跳ねて見てると、次のニューオーダー待ちの仲間と遭遇、発見と出会いの2日目だった、さすがにこの日は延々続くニールヤングのライブを後にし早々とテントに帰り就寝

3日目実はあまり覚えていない、当時のフライヤー見ても思い出せないんだなぁ前半は特に、ブラフマン見に行く仲間をテントで見送ったのは覚えてる、ロン・セクスミスからUAをレッドマーキーで見て、トゥールの最後の方でグリーンに到着、1人でエミネムを寝転んで見ていた記憶、ピップホップのライブって予定調和を楽しむモノというのは知らないで見たので、味気なく感じた、ロックのライブの様にアクシデントと楽しむ文化では無いのだ。

兎にも角にも初めてのフジロック2001年が終わった、ライブも感動を沢山与えてくれたが、やはりあのお台場のウエイトレスが言っていた事は本当だった、フジロックというイベント、フェスティバルそのものの感動が大きかった、大自然の中の会場そのものを楽しむ、音楽は装飾品の様なモノだった、人生観が変わり、ここから15年位、僕はフェスティバルに恋をした、全ての始まりがフジロックフェスティバル2001だった

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