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神田大明神への参詣と鬼門・平将門

2024.1.27   記       
                          石河正夫

筆者は家族と一緒に毎年初詣をすることになっており、新年の神社は神田大明神と決めていた。
大晦日のNHK紅白歌合戦の直後に「くる年行く年」だったか、かなり詳しく「神田大明神」がクローズアップされたこともあって目的地は決めやすかった。
また、日程についても、家族の一員が正月の3が日は海外で過ごすプランを立てていたので、正月の参詣、新年は6日か7日にしょうと根回し済みであった。

しかし、神田大明神の神社がお茶の水の聖橋を渡って数分のところにあるとのことぐらいの予備知識しか持ち合わせていなかった。7日に日程が確定してから、「神田大明神」がどんな神社か知りたく、検索したところ、歴史的沿革を読んで、神田神社が「鬼門」とか「平将門の乱」とかに関係していることを初めて知り、一層興味が掻き立てられた。

神田大明神のパンフレットによれば、「徳川家康が関ケ原の戦い(1600

年)に臨む際、戦勝のご祈禱を行った。すると神田祭の日(9月15日)に家康の軍勢は豊臣軍を破って天下統一が実現され、それ以後徳川幕府はこの縁を担いでいわば直属に近い神社となった。
但し江戸城から見て鬼門にあたる方向の場所として現在の地に遷座させ「江戸総鎮守」として幕府をはじめとして江戸庶民に至るまで深い崇敬を受けることになった。」

以上が神社側のパンフレットの説明要旨であるが、釈然としなかった。
神社であれば、誰を祭っているか、例えば徳川家康を祭っているとかだれが、いわゆる祭神がはっきりしているのが普通である。

それでウイキペディアの説明が当該神田神社の社伝から直接引用されており信憑性が高いと判断したのでパンフレットの説明に納得できない人のためにもこの際調べてみた。

当該社伝によれば、要約次の通り。


「天平2年(730年)、武蔵国豊島郡芝崎村に入植した出雲系の氏族が、大己貴命を祖神として祀ったのに始まる。
神田はもと伊勢神宮の御田(おみた=神田)があった土地で、神田の鎮めのために創建され、神田ノ宮と称した。

承平5年(935年)に平将門の乱を起こして敗死した平将門の首が京から持ち去られて当社の近くに葬られ、将門の首塚は東国(関東地方)の平氏武将の崇敬を受けた。

嘉元年間(14世紀初頭)に疫病が流行し、これが将門の祟りであるとして供養が行われ、延慶2年(1309年)に当社の相殿神とされた。平将門神に祈願すると勝負に勝つといわれる。

承平5年(935年)に平将門の乱を起こして、敗死した平将門の首が京から持ち去られて当社の近くに葬られ、将門の首塚は東国(関東地方)の平氏武将の崇敬を受けた。

嘉元年間(14世紀初頭)に疫病が流行し、これが将門の祟りであるとして供養が行われ、延慶2年(1309年)に当社の相殿神とされた。
江戸時代に入って、江戸城増築に伴い慶長8年に神田台へ、さらに元和2年(1616年)に現在地へ移転した。

明治に入って神社が国家の管理下に入ると、明治4年(1872年)に正式の社号が「神田神社」に改められた。1874年(明治7年)、明治天皇が行幸するにあたって、天皇が参拝する神社に逆臣である平将門が祀られているのはあるまじきこととされて、平将門が祭神から外され、代わりに少彦名命が茨城県の大洗磯前神社から勧請された。

平将門神霊は境内摂社に遷されたが、太平洋戦争後の1984年(昭和59年)になって本社祭神に復帰した。現在は神社本庁の別表神社となっている。また旧准勅祭社の東京十社の一社である。

以上が神社側の説明を要約したものである。
さて、
本件の歴史的史実を調べるにあたって、筆者の本棚にある『日本人の宗教感覚』山折哲雄 NHKライブラリー を読んだところ、第5章の「玉体杉と将門岩‐怨霊封じ込め」に興味ある説明が掲載されていたのでサワリの部分のみ引用する。

『旧冬、久しぶりに比叡山に登った根本中道あたりで一服してからさらに坂道を
這い上がるとすでに比叡連峰の最高峰四明岳の頂上であった。・・・比叡山頂遊園地に向かう。
そこに異様な巨岩が根を生やしたように地を這っている。野獣が折り重なって臥せっているようにも、また、大蛇がとぐろを巻いているようにも見える。
聞くとそれが将門岩とのことであった。・・・10世紀、東国では平将門、西国では,藤原純友が王朝政権に反抗して兵を挙げた。世に承平・天慶の乱といわれるものだ。
乱はやがて鎮圧され将門も殺されてしまう。 だがどうしたわけか、将門の怨霊だけは天下の人心に異常ならざる恐怖を植え付け、将門伝説なるものが伝染病の如く広まっていった。
その将門の名にちなんだ岩が一体どうして叡山の山頂に鎮座することになったのか。
比叡山は千年もの間、いわずと知れた往生鎮護の霊場だった。俗に3塔16谷という。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
京都市街の大小高低様々な建築物がない時代、空に一転の雲もなく晴れ渡ったような1日、その山頂に鎮座する巨岩はあるいはもっと鮮明なシルエットを盆地人の視野に飛び込んできたかもしれない。・・・・・・四明岳に横たわる将門岩は四条・膏薬道場にかくまわれている5輪塔とひそかな交信を交わしているのではないだろうか。
後世の伝承によると、四条河原でさらし首にされた将門の首は比叡山の山頂あたりにしばらく漂って天空に駆け上がり血を滴らせ憤怒の形相でのまま関東の地さして飛んで行ったという。』

さて、怨霊の話はこのくらいにして、神田神社―神田大明神―にわれわれ家族一同参詣した話に戻ろう。
JR御茶ノ水駅から聖橋を渡って、数分で神田大明神の隋神門にたどりついた。以下の写真でも満員であった。約1時間足らずかけて少しずつ前進し、本殿にて型通り、お賽銭を投げ入りながら能登半島地震犠牲者へ祈りを始め、家内安全等を祈念した。そして筆者は交通安全守護のお守りをすぐ近くの販売小屋にて購入した。

そのあと境内の出口辺りで猿回しをやっているのを見てサルの知能の高さに感心し、千円寄付し、裏通りから、すぐ秋葉原の大通りに出た。
家族の全員がそばを食べたいと一致し、ぶらぶらしていると案外簡単に蕎麦屋が見つかった。

毎年正月には、明治神宮は度々出かけているので、近年は、都内か又は郊外の異なる神社を順番に見つけて参詣しているところ、今回,天気にも恵まれ、このような折りでないと離れた距離に住んでいると案外と昔のように会えない家族の一員とも電話でなく直接談笑する機会に恵まれ、なんとなくハッピーな気分になった。

3.上記神田大明神に関する写真
次の写真は3代広重による「東京名所図会」の「神田神社境内」である。







隋神門





本殿




本殿



本殿礼拝のポイント

(了)



能登半島地震と神田大明神参詣ーータイトル

2024.1.27. 記                            石河正夫

本文
1.能登半島地震と関東大地震
今年の正月(令和6年1月1日午後)を境に日本人の常識が大転換せざるを得ない事態となった。
なぜなら、数千年に1回かと推測される程の地殻変動が元旦に能登半島近辺で起こったのだ。

国土地理院による観測衛星のデータによれば、輪島市の最も狭い地区で海底露出が巨大で、海岸線が240メートル遠ざかり、東京ドーム5.5個分の陸地が出現したとの報道で驚いた。

「天災は忘れたころにやってくる」などの格言は今や通用せず、平成7年の阪神・淡路大震災、16年の新潟地震、23年の東日本地震、ちょっと思い出すだけでも大地震が立て続けに起こっているではありませんか?
海と陸地との境界あたりに存在している活断層が原因で地殻変動が起こっている。
これでは日本列島は地震列島ではありませんか?もともと極東の火山列島だから宿命的だ。

しかし逆説的ではあるが、「天災は忘れたころにやってくる。」との発言は、あの有名な科学者の寺田寅彦が日本の自然環境を緻密に観察した結果、独自に生み出された危機管理的な警告だったのかもしれない。

大地震に備えて、1923年9月1日の関東大地震の被害状況を簡単に振り返ってみよう。
この関東大地震は、相模湾北西部を震源地としていたがそのエネルギーが物凄い。
相模沿岸部から東京はもちろん房総半島にまで及んでいる。
被害状況を調べてみると、
死者       東京都 7万6387人    神奈川県 3万2800人    千葉県 1346人
住宅全消失  東京都 17万2500 戸   神奈川県 3万5400 戸  千葉県  431戸

津波と土砂災害とによる被害が大きい。それも広範囲に三浦半島や房総半島にまで拡大している。相模湾沿岸部と房総半島沿岸部では高さ10メートル級の巨大津波に襲われていると報告されている。

木造住宅が密集した当時の東京市(15区)に火災が広範囲に延焼し、住民約百万人が東京から外へ疎開せざるを得なかった。
現在これらの地域では、宅地化が進み一戸建ての住宅が隙間なくひしめき合っている。百年前の土砂災害が発生すれば想像を絶する土砂災害に見舞われる可能性がある。

以上考慮してみると、能登半島地震や関東大震災の如き地震は「忘れたころにやってくる」のでなく、「近い将来必ず来るぞ!」との警戒心を抱いて日頃から官民一体となって、コツコツと地道に百年の計の対策を講ずべきではないでしょうか?

2.神田大明神への参詣と鬼門・平将門



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