温暖化懐疑論者と歴史修正主義者の類似性

温暖化懐疑論者とは、温暖化や気候変動から目を逸らそうとする論者である。(日本における)歴史修正主義者とは、日本の歴史のうち、都合の悪い部分から目を逸らすために、悪意を持って修正しようとする論者である。一番分かりやすいのは、南京大虐殺否定論で、「本当は大虐殺はなかった(ので中国に謝る必要はない)」という、いわゆる日本の「保守」の幼稚な願望にもとづく主張である。

なぜこのようなことが起こるかは、論じるまでもないが、例えば自動車産業や石油産業であれば、自身の正当化のため、CO2が温室効果ガスである、という科学的事実から目を逸したい、そして、温暖化懐疑論を広めるためには手段を選ばない、ということは、想像に難くない。

いずれにしよ、どちらも「保守」であり、大きな括りでは「反社会的勢力」とも言える。反社会は、社会に多くの「まともな人」が存在する前提で、社会に寄生し、足を引っ張り続ける。社会全体、引いては地球全体が将来どうなるか、未来がどうなるのか、そういった利他的な責任感は持たない。常に、自分達の存在が(社会において)相対的に正当化されればよい。自分達の反社会的な存在を維持するためには、何が「まとも」であるかを見定める必要がある。つまり、彼らは、常に間違った(反社会的な)主張をするが、実際は、何が「まとも」で、何が正しいかは理解している。常に的を外し続ける。

温暖化懐疑論について言えば、例えば、「CO2は温室効果ガスではない」「大気中のCO2濃度はそれほど増えていない」「実は温暖化していない」「実はちょっと温暖化しても人類は大丈夫である」といった、全く異なる、矛盾するような主張が、彼らの中で共存していて、彼らの中で議論が起こることはない。これらの主張は、全て「正しく(わざと)間違えて」いて、正しく(わざと)的(正解)を外している。

温暖化懐疑論や歴史修正主義は、「保守」勢力によって、あるいは個人によって、とてつもなく強い意思で主張される。「まともでない人」が、自身を正当化する意思は、想像を絶するほど強い。なぜなら、それらの論が否定されると、自身の人格が否定され、自我が保てないからである。

これらの反社会的な勢力、あるいは「保守」勢力が、組織的に論を立てる場合、その分量は巨大で、複雑で、網羅的に精査して反論することは、現実的に不可能である。ただ、いくらその虚構が巨大であっても、虚構は虚構に過ぎず、結論だけ見れば意図は明らかなので、向き合わず、非対称戦に付き合わず、ただ最大限の軽蔑をもって無視するべきである。

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