割れそうな卵の扱い方

 古い農家の和室の一つである「中の間」の畳に腰を下ろし、濡れ縁に足を放り出す。後ろの畳に両手をついて庭を見る。茅葺きの屋根の切り取り部分が広い庇のようになっている。庭の左手には茅葺きの建物がある。なかに入ると十畳くらいのスペースがある。昔はそこで様々な作業を行う小屋であった。それを今は改装して、ケンジの私塾として使っている。

 作業小屋の向こうには木小屋と呼ばれる薪や材木を置く小屋がある。今は物置になっている。私塾となった作業小屋に置いてあった物なども、詰めて入れてある。木小屋の並びには各種花を植えたスペースがある。

 屋敷は大人の背くらいの生け垣で囲まれている。生け垣は犬槙の木である。成長が遅く、風に強いので生け垣に向いている。そんな景色を見ながら呆けていると、屋敷全体を盛春の風が吹き抜ける。屋敷の敷地の外に立っている楠や八重桜、山桜、染井吉野の姥桜、松や杉の枝が揺れている。土の庭には様々な桜の桃色や白い花びらが風に舞っている。

 濃い青空には塊になった白い雲が浮かぶ。雲は風に吹かれて、視界をゆったりと移動している。

 長屋門と呼ばれる、藁葺きの小屋の中央をくりぬいた形の門の向こうには畑が拡がっている。畑は茶の木の垣根で囲まれている。畑でじゃがいもの苗を植えているケンジの母親の頭が、茶の木の垣根から見え隠れする。

 垣根の根元のすきまから、駆けずり回る茶トラのネコが見える。ネコの名はマルス。ケンジの家の飼い猫だ。マルスは走っては止まり、伸び上がって両方の前足で何かを掴もうとしている。虫でも捕まえようとしているみたいだ。母親がしゃがんだまま、「マルス、こら」とたしなめるが、興奮状態なのでいうことを聞かない。何かを追いかけて、菜の花の密林へ突っ込んでいった。

 春の昼下がり、陽の光が燦々と差し込む。頭と身体の力が緩む。意識が周辺と同調する。

 「コウスケも聞いてくれよ」

 ケンジの声が周辺に散った意識を身体に引き戻す。少しだけ不快になった。ボクはケンジのいる「奥の間」に背を向ける形で座っていた。顔だけ振り返り、返事をした。

 「大丈夫だよ、きちんと聞こえるから」

 ケンジは向こうの和室で文机に腕の肘を突いている。文机の前には中学生が二人正座をしている。一人はシンイチといって、塾の中学生のリーダー格だ。もう一人はリョウという。シンイチと同級で、同じ公立中学に通う。ケンジに呼ばれて玄関から上がり、「中の間」に入ったとき、文机の前で、肩をすくめて正座をしているリョウを見たとき、うっとうしい話だと直感した。

 声をかけられ、三人に背を向け続けるのも気が引けて、庭を背にして寝転がった。肘枕で三人のやりとりを聞く。

 「だって塾に入ったばかりだろう。辞めたいなんて」

 三人は話の続きを始める。

 「将来のことを考えたら、塾を続けた方が良いのはわかってるんですが。お金が・・・・・・」

 リョウの実家はシンイチと同じく母子家庭だった。しかも、ボクは噂しかしらないけど、父親は借金を作って失踪しているはずだ。

 もちろん一昔前と比べれば、母子家庭でも生きていけないわけではない。シンイチの母親は看護師だ。そういう仕事ならば、決して楽ではないが、暮らしてはいける。だが借金があってはだめだ。額にもよるが、焼け石に水の状態なのかもしれない。

「そうか・・・・・・」

 とケンジは火を付けた煙草を咥えたまま腕組みをした。そのまま視線を落として、沈思黙考していた。

 逡巡しているに違いないが、何を迷っているのか、実感がわかなかった。「お金がない。じゃ、さようなら」ではどうしていけないのか。

 ケンジの塾は慈善事業じゃない。世間にはそういう金銭的に恵まれない子どもを集めて勉強を教えるNPOも存在するらしい。リョウみたいな中学生は、そういうところへ行けば良いとボクは思う。

 恵まれない家庭に育つというのも個性だ。そして一度身についた個性からは逃れられない。様々な場面で貧乏という個性は現れる。所作の汚さもそうだ。立ち居振る舞いに現れる。人との関わりにも現れる。屈折した家庭は常に肩にのしかかっている。いつも何かに追われている感覚として認識される。

 ケンジとボクを、大人になってまでつないでいる線があるとすれば、それは「亡霊」の存在だろう。二人とも貧困ではないが、なかなか荒んだ家庭に育ったという感覚がある。目の前のリョウに比べれば贅沢な話なのであるが。

 そしてボクは「亡霊」に屈した。

 ケンジは違うのだろうか。

 目の前の子どもに人並みの力を与えても無駄だぞ。人並みじゃダメなんだ。わかっているだろうに。相手は「亡霊」なのだから。人並みに生きられればいいというのは教師の独りよがりだ。今どき珍しい、学ラン姿の二人の中学生を見ながら思った。

 横になったまま片膝を立てて、肘を畳につき頬を手にのせ、隣の和室の三人を見ている。部屋と部屋の間には襖があり、襖の上の小壁はすべて透かし彫りになっている。ひし形を連ねた模様の名前は知らない。

 こんな春の日にそんな話しなくても、と部外者は思う。いや、自分は当事者としてそこに加わりたくないと自分を遠ざけたいだけだ、と気づいた。無駄だときめつけたいのだ。

 必死に「亡霊」から逃げてきた日々を否定されたくない。

 微風が三人のいる部屋から僕に向って吹いてきた。ケンジのうしろの掛け軸――若冲風の朝顔が描かれている――がめくれあがる。押し入れの襖を揺らす。僕の頬を撫で、髪の毛の間を吹き抜けてゆくのを感じた。べっとりとした頭皮の汗に気づいた。

 「本当は塾代なんていいから来いって言ってやりたいがなぁ。今じゃ二人に一人が大学進学をする時代だからね。次の時代を担う卵には学力くらいつけさせてあげたいからね。大人ができることなんてそんなにないんだ。それくらいしかね」

 鼻から煙草の煙を噴き出す。

 この塾の経費なんて、テキスト代くらいなものだ。賃料もないだろうし、フランチャイズ的な展開をしている塾でもない。どういうからくりかは知らないが、ケンジは生活にも困っていない。だから月謝を一人分免除しても構わない。もうすでに入塾の際にテキスト代も取っているだろうし。

 「どうしてそんなに切羽詰まったんだい」

 とリョウの背中に僕が聞く。

 「聞いてないじゃないか」

 と眉根をひそめてケンジがリョウの肩越しに、僕を睨む。

 「コウスケさんが聞いてても意味がないですよ」としシンイチが茶化す。いたずらっぽく歯をむいて笑った。

 「良いから聞かせろよ」とリョウを急かすと、ケンジと相対して正座していたリョウはケンジの正面をあけるように坐りなおして、説明を始めた。

 「結論から言えば母親が入院しちゃったからです。僕は母と二人で暮らしているので・・・・・・」

 『結論から』という物言いが逆に、「これ以上詳しいことは聞くな」という意思表示に感じた。半身を開いてこちらにも体を向けてはいるが、視線は膝に落としたままだった。

 ただリョウのこれだけの言葉で大体のことは察しがつく。母子家庭で母親が倒れれば、あとはどうする事も出来ない。母親側の実家と折り合いがよく、またその実家に資力があればこんなことは、そもそも問題にならない。

 母親の実家の状態はともかく、リョウの家庭が社会的に半ば孤立した状態なのは間違いない。

 「生活保護を受けるように役所から勧められています」

 話を聞きながら頭をかすめた「生活保護」という言葉がリョウの口から出てきて、ボクは動揺してしまう。

 「あんまり詳しくないんだけど、生活保護って贅沢に厳しいだろ。やっぱり塾なんかも贅沢の内なのかい」

 と僕が聞くと、ケンジが応えた。

 「自治体によって違うけれども、高校に進学する費用には理解があるらしい。だけど大学進学は厳しい。どちらにせよ自力で何とかするのが生活保護の基本だね。

 それにやはり、世間の目がなぁ」

 文机に左右の肘をついて身を乗り出すようにしてケンジは話す。

 「詳しくなっちゃったよ。知りたいわけじゃないんだけどね」

 ボクの意中を読んだようだ。

 「シンイチもそうだけど、うちは公立の子が中心だろ。塾代もかなり抑えてるしね。だからそういう子に出会う。苦労している子と話していると妙に同情しちゃってね。

 本心を話すけどあまり気にするなよ」

 といって、リョウとシンイチに横目で了解をとった。二人は肯く。ケンジは肘をついた姿勢から上体を起こし、腕組みをする。

 “トコトコ”という音を背後で聞いて顔だけ振り返ると畑で遊び終えたマルスが、濡れ縁に上がったところだった。マルスは横になったボクの頭に身体をこすりつけながら、畳を歩きケンジの脇に“ドサリ”と音を立てて寝転んで、長い尻尾を畳に叩きつけた。

 「本音を言うとな、リョウみたいな子に勉強させてなんになるんだろうって思うんだよ。良い高校って、良い大学に行くことで完成するわけだろ。ここで頑張ってリョウに勉強させて高校入れたって、その先の大学進学は自力で行かなきゃならない。確かに学力的には一時期に比べれば大学はずいぶん入りやすくなってる。それでも大変だよ。学費を工面しながら行くってのはね。いずれね、追いつかれるんだ。そういうものには」

 ケンジはボクと同じ感覚を持っていた。

 「こんな商売をやっておいて言うことじゃないね。

逆にそれでも何人かでも、救えればいいんじゃないか、とも思ってね。学校はイカレた親の世話で、生徒どころじゃないからね」

 シンイチとリョウが目を合わせて笑う。

 「現実的に手に職を付ける方向に行った方が良い。だがそれだって金がかかる・・・・・・」

 ケンジは言いながら煙草を揉み消した。

 「大人だからね。見当がついちゃう・・・・・・」

 「なに話してんの?」

 ケンジのお母さんが畑から帰ってきた。ジーンズについた埃を払いながら、さらに濡れ縁から上がってきた。

 そのまま皆がいる和室をつっきって消えていった。すぐに戻ってきた。手には緑茶のペットボトルを持っていた。台所へ行って取ってきたらしい。なにも呑んでいないボクら見て、「なによケンジ、お茶くらい出しなさいよ」と言った。

 ケンジは眉をひそめ、うるさそうに

「いいから放っておいてよ」

 と言った。

 そんなことにはかまわずお母さんは、「コウスケくんちょっと手伝って」とボクに付いてくるように促した。適当な返事をしてボクは起き上がった。「もういいから」とボクを制しようとするケンジを「まあまあ」となだめる。台所へは「中の間」から「奥の間」へ歩きそこから並行して、廊下、洋間を突っ切ると早く移動できる。目端の利くシンイチが「自分が」と立ち上がろうとするのを、肩を押さえて止めた。「たまには役に立つよ」と嫌みを言うと、シンイチが若い白い歯を見せて笑った。

 台所は板敷きになっていた。

 黄緑色の冷蔵庫を開けて、台所の中央にあるテーブルの上においた人数分のコップにお母さんがウーロン茶を注ぐ。

 「あの子、オオワクさんのところのリョウくんでしょ。どうしたの」

 次々とウーロン茶を注ぎながらお母さんが聞いた。ボクは、正確にはボクらは、この家では家族同様に扱われている。そんな友人も何人かいる。ボクらは事前にお伺いも立てずに家に上がり込むことなんかしょっちゅうだし、家の人も遠慮しない。気づくとシャンデリアの電球の交換までさせられる。

 そういう間柄なので、そういうことを聞いてくるのは察しが付いた。だからシンイチが来るのも止めたのである。アイツは余計なことまで話すから。

 息子が塾を始めてしばらく経つが、お母さんにとっても、子どもが増えたような感覚を持っているらしい。ボクらはとっくにかわいい子どもとは言えない年齢だ。懐かしくなるのか。それで興味を持ったのだろう。かわいい子どもが困っていると思っているわけである。

 かいつまんで説明をした。お母さんはボクの説明を聞きながら、「あれ」とか「まあ」とか驚きの声をあげる。

 やがて話が終わると、お母さんは飲み物のグラスの載ったお盆を持ち上げ、「奥の間」へ歩いて行った。なにやら決意を固めたようだった。「奥の間」に入るや否や、「リョウくん、ご飯と塾のことは心配しなくていいから」とお母さんは言い出した。ちょっと興奮気味であった。[四九九六文字]

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