向いていない男

 家に入ると家族はもう寝ていて、家のなかは暗く静かだった。高層マンションの七階なので、周囲の騒音も何も聞こえない。
 玄関の照明はだんだん明るくなるタイプだ。手探りでスイッチを点け、靴を脱いだ。まだ完全に明るくなりきっていない玄関に上がったとき、誰かがいるような気がして、視線を上げてしまった。普段は見ないようにしていた。
 姿見に映った男を見てぞっとした。
 姿見の男は、初夏で街行く人が軽装になっているというのに、まだスーツの上にトレンチコートを着ていた。顔にはほうれい線が深く刻まれ、額がいっそう禿げ上がっていた。コートの上からでも、身体の筋肉がそげ落ちているのが分かった。達観した老人の清らかさはなく、唇は生肉を食べたように脂ぎっていた。
 我ながらひどい顔だ。
 頬をなで回しながら姿見に近づき、よく顔を見た。そのうち照明の照度が最大になった。姿見の顔もいつもの中年の男になった。
 三年前、会社で課長に出世した。異例の遅い出世だった。もともと仕事に没頭するタイプではなく、趣味に生きる人間と自負していた。粛々と仕事をこなし、文句を言われないようにした。余暇を趣味に使った。その淡々とした仕事ぶりが評価されてしまった。
 寝室、浴室、洗面所、子ども部屋、書斎が両脇に並ぶ廊下を足音をあまり立てないように歩く。子どもを起こしてはいけない、という子どもが乳幼児の頃についた癖だ。以前、赤子だった娘が起きてけたたましく泣き、その鳴き声以上の声で妻にどやしつけられた。
 今でも妻はよく言う。子育ての辛さはトラウマになっている、と。トラウマだという割にそれを語るときは決まって誇らしげだった。聞いていると人間としてお前よりステージが上だと言われている気分になった。
 「子どもを育てるのは孤独な作業だ。誰も助けてくれない」
 「人を育てるのは崇高な作業だ」
 というようなことを妻が話していると鼻白む。
 ガラスのはまったドアが廊下のどん詰まりにあり、それを開けるとリビングだ。正面の壁には身長くらいある窓がある。その窓の向こうには大きな川が流れ、川の向こうには街の明かりが広がる。
 この眺望が妻のお気に入りで、私は目の前の川にすぐでられるのが気に入った。私はランニングやサイクリングが趣味で、川の脇のサイクリング・ロードに、家からすぐに練習に行けた。夏は目の前の河川敷から上がる、花火大会を見ることができた。
 リビングは白を基調とした家具で統一されていて、窓にはピンクのカーテンが下がっている。どれも妻の趣味だ。白のソファーやピンクのカーテンを、衝動的に全部はさみで切り刻みたくなることがある。夜なのにカーテンは開け放たれていたが、触りたくないのでそのままにした。
 リビングからキッチンは仕切りがなく続いていた。ペニンシュラ型の対面キッチンを備え付けのものから交換した。高かっただろうが、費用は妻の実家が負担した。家庭生活を大切にするんだなあと思った。が、作られるものは、いたって普通の料理だった。ちょっと酔った勢いでそのことを指摘すると、きつくにらまれていかに育児が大切かということを滔々と話し、涙した。
 キッチンの前には食事用のテーブルがあり、見ると冷めたポークソテーがあり、ラップがしてあった。本音を言えば、ここ数年は妻の手料理よりもジャンクなものが食べたかった。子どもが生まれてから、何かというと育児に絡めて恨み言を吐くので、余計なことは言わないようにしていた。
 キッチンに合わないごく普通の料理を温めて食べたが、まるで味がしなかった。

 翌朝、妻と反抗期中の娘が鬼ごっこをしている間に、気づかれず出社しようと気配を消して玄関まで来た。目の端に姿見があるのだが、まともに見ないように気をつけた。靴箱の上にある靴べらを手に取り、くたびれた革靴に足を入れた。
 「行ってらっしゃい」という声に心臓を掴まれた気がして振り向いた。最近聞かなくなった言葉に驚いた。娘を抱えた妻が立っていた。声をかけるわりにこちらに目もくれず、妻は姿見の前で右に左にくるくると周り、スカートの裾をヒラヒラさせていた。姿見に映る自分に夢中なのだ。子育てがトラウマになっているくらい大変なのに化粧をきちんとし、身なりに気を遣い、ブログなども書いているようだった。本人は気づかれていないと思っているのだろうけれど、それくらいはわかった。
 妻は同じ会社の同じ課の出身だった。非常に美人だった妻は、社員にとって高嶺の花だった。結婚を決めたときには皆が羨んだ。
同じ会社で友人のように他人とわかり合えることなんてないと思っていた。しかし、妻とはわかり合えた気がした。デートに行ったときでも、仕事帰りに飲み屋で呑んでいても、妻は話をじっと聞いてくれた。私が笑えば笑い、悲しめば悲しみ、怒れば怒る。同じ職場の人間で感情を共有してくれているのだと思った。が、今になって考えれば、鏡を覗くのと同じだった。私と同じ反応をしている私の像を見ているだけだ。結婚してそう気づいた。
 結婚してしばらくすると、妻に話しかけても無駄だということに気づいた。同じ職場なのだからと、人間関係などを相談しても、はかばかしい言葉は一切返ってこなかった。いや、もともとそんな言葉など妻が発したことなどなかったのだ。しかも、職場にいる人間について、何も知らないようだった。
 相談すると、「知らな~い」という返事をするだけだった。
 そうして気づいた。
 『甘やかされただけの人間で、周囲の人間の裏側、汚い面は見ないですんだんだ』
 そして娘が生まれてからは、生返事する人間すら、鏡のなかから消え失せた。鏡を放棄した妻はいつだって娘を見ていた。
 玄関の姿見はやはり妻の要望で設置された。妻は姿見の前ではいつだってくるくる回っていた。ある日くるくるまわる妻を見ていて、『この女はバカなんじゃないか』と思った。
 「行ってきます」と言って、娘の頬を人差し指でちょんと触った。娘は露骨に嫌な顔をした。自分が嫌いな相手がいるときは、たいてい相手も自分を嫌っている。子どもにもこの道理は通用するのだろうか。

 会社に到着し、営業部に入る。課ごとに向かい合わせに社員が事務机を並べていた。一番奥にある課長席へと向かった。
 腕時計で時間を確認する。始業の十五分前。いつも通りだ。
 大勢の視線に気づき、離れ小島から右手の部下たちの方を見た。こちらの視線が向くのに合わせて、部下たちは視線をそらしたようだった。なぜか、自分が笑われているように感じた。
 左手にいつのまにか部長が立っていた。部長は禿げ上がった頭で棒のようにやせていて、口さがない部下からはマッチ棒と呼ばれていた。
 「課長、ちょっといいかな」
 「はあ」と生返事をする。
 部長は私の椅子にコートがかかっているのを見て、「まだコートを着ているのか」と聞いた。人の勝手だろと思い、また「はあ」と生返事をする。生返事をしてから後悔した。常日頃からこの部長からは「覇気がない」と注意を受けていた。こういう煮え切らない態度を取るからだろう。
 「この前から君が作っている改革案のことだけどさ」
 マッチ棒は部下の前であまり話してほしくない言葉を発した。私はドギマギした。右手の部下の背中が耳になっているのを感じた。
 「あれ、社長の指示なのか、それとも君の課の総意なのか」
 私が「言っていることの意味がわからない」という顔をしたのだろう。
「いやね、何人かの重役連中が、聞いてきてさ」
 クレームが来たのだろう。
 実は営業部の再編案が出ていた。その具体案の作成を任された、と私は思っていた。確かに私がそんな案を作っているというのは、重役からすれば縄張りを荒らされているように感じるだろう。重役の頭を飛び越す話なのだから。社長は反対を押し切ってでも改革をしようとしているのだと理解していた。
 きっかけは社長との酒の席だった。営業部の再編をして、事業の効率化を図った方がよい、と常々言っていたのだが、社長が「いいんじゃない」という返事をその席でしたのだ。社長はそのことを翌日、私の部下に漏らした。結局それがきっかけになって改革案作りが始まったのだ。
 ところがマッチ棒が『どちらが先に案を出したか』と聞いた。ということは、社長は重役連中に突き上げられて日和ったのかもしれない。どう返事をすれば、最良になるのか分からなくなった。
 「我々の課の総意です」
 と咄嗟に言ってしまった。
 右手の部下たちの背中が動き出し、なにやらゴソゴソ言っているのが聞こえた。
 分かったと言って立ち去る部長を見送った。
 部長が部屋を出た途端、部下たちが私を囲んだ。一番の出世頭と目されている男が口火を切った。
 「そりゃないでしょ、課長。我々は何も言ってないですよ。勝手に社長と課長が決めたんでしょ」
 「いや、正確に言うと社長は何も命令をしていない。酔った席の話だしね。だから、ああ返事するしかなかった」
 いかにも体育会系という感じで、口の悪い男が言った。
 「そういうときは、我々を巻き込むんじゃなくて、『私の一存です』っていうべきでしょ。なんですか、それで失敗したときは我々まで責任取るんですか」
 「いや、あの・・・・・・」
 そこまで言われて、自分が部下たちまで巻き込んだのだと気づいた。なんと愚鈍な。そして返答に窮した。
 「また黙るのかよ」
 後ろの方から声がした。正確には確認できなかった。俯いたままでいたからだ。顔をあげて、そう言った人間の顔を見るのが怖かった。
 何も言えないでいると、何人もの部下の舌打ちが聞こえ、部下たちは仕事に戻っていった。
 
 それからは最低限の仕事しかできなかった。部下は誰も相談に来なかった。
 どうして自分がそんなことをしたのかと考えつづけた。
 自分はあの瞬間、保身に走った。自分だけでなく、皆で考えたことにすれば責任が分散され、何かあってもおとがめなしになるのではないかと考えたのだ。
 自分の器量の小ささに嫌悪感を抱いた。
 右手では部下たちがいつもにも増して黙々と仕事を続けている。その背中にトゲがあった。
 出世頭と目されている男が私の目の前に立った。
 私が目線を上げると、上がるのを待っていたというように私の目を見た。
 「何か用か」
 といいかけると、それを遮るように資料だろう紙の束を私のノートパソコンのキーボードに叩きつけた。
 叩きつけられた紙の束を呆気にとられて見て、そのまま目線を男に向けた。男は私の目を凝視したあと、口の端を上げて、蔑むように笑った。
 「お前終わったな」
 と言われた気分だった。
 そのまま踵を返して、デスクに戻っていった。部下たちが賛意を示すように、クスクスと笑っているのが、揺れている背中から分かった。
 出世をすると人が離れる。
 ただ、ここまで自分が人望がないと思わなかった。誰も私の心なんて忖度してくれない。そう思うとだんだんムカムカしてきた。
 どうしてこんなやつらの心中を慮って、かばわなければならないのか。
 どうして保身に走って悪いのか。
 どうしてお前らよりも家族を大切にして悪いのか。
 私には妻と娘を養う義務がある。
 いや、私自身が課長の席に恋々たる思いを抱いてなぜいけないのか。
 どうせバカにしてるんだろ。
 能力はないし、今まで出世なんて興味ないなんてフリをしていながら、ちょっと自分が認められると、それに乗っかって、結果が出れば調子に乗って、改革だ、さらなる飛躍だと、人が変わったみたいに仕事に夢中になった、哀れなヤツ、格好の悪いヤツ、情けないヤツ。
 どうしてそんな課長ごときの座に汲々としているのか。
 そうか妻が嫌いだからだ。あんな女嫌いだからだ。子育てごときで人間のステージが上がったなんて勘違いしているヤツが嫌いだからだ。男はいつだって子育てには関係がない。いつまでも補助だ。補助以上の地位は与えられないんだ。出世すれば自分もステージが上がると思ったから。だから出世したいんだ。あんな女にバカにされるなんて我慢できない。
 情けないか。
 いいさ、笑うがいいさ。
 決めた。
 お前ら全員潰してでも、この席は譲らない。
 気づいたら、大笑していた。
 部下たちは呆気にとられて顔を見合わせていた。
 知ったことか、そんなこと。

 その夜遅く、静まりかえった家に入り、徐々に明るくなる間接照明を点けて靴を脱いだ。ふと誰かの視線を感じて見上げてしまった。
 目の前の姿見には骸骨になった男がトレンチコートを着て立っていた。

――了――

[四九九一文字]

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