翳り

 白いプラスチックのデッキチェアに真崎が腰を下ろした。勢いを殺せなくて、「尻餅をつく」格好になる。デッキチェアは尋常ではなく軋んで、けたたましい音を立てる。

  「すごい音」

  隣のデッキチェアに座った少年が心配そうに言う。少年は少年らしく、細身である。思わず、手摺りに手をつく。

 二人の間には丸いステンレスのテーブルがあり、テーブルの上には飲み物が置かれていた。真崎の方にビールジョッキ、少年の方にコーラの入ったグラスである。二人のガラスとも、表面にびっしり露が付いている。真崎がゆっくりとその百キロを超える巨躯を沈めても、デッキチェアはミシミシミシミシ・・・・・・、と破壊寸前という音を上げる。

  真崎は同じくミシミシいっている背もたれに身体をあずけて、扇子を広げて、顔に風を送り始める。見上げた空は、夜のわずか手前の時間帯、ブルーハワイのシロップのような色をしていた。空が暗くなれば、花火大会が始まる。 少年は一心といって、古い知り合いの息子で中学二年生である。

  ここは知人宅、つまり一心の家の屋上だ。真崎は一心の父親に呼び出された。

  「だいぶ夏の暑さも落ち着いてきたな」

  「そう、おじさん見ててもそう思わないけど」

  コーラを口に含みながら一心は言った。真崎はちょっと鼻白んだ。 扇子で冷却しようと試みているのに、真崎の額にびっしりと張り付いた汗はいっこうにひかない。確かにそうなのだが、この年代の子どもに『時候の挨拶』など理解できないか。扇子で顔をあおぎながら、そう思った。

  気を取り直そうと、ビールを一口あおる。一心に気づかれないよう、そっと溜息をつく。うっとうしい話だが、花火が上がり始める前に、用件を済ませようと思った。 

 「なんか悩みがあるんだろ。よかったら聞くよ」

  一心は目を膝に落とした。明らかにためらっていた。今日一心とは初めて会ったのだが、一心は明らかに浮かない様子だった。夏休みだっていうのに、悩みがあって煩悶していたという記憶はない。もちろん、性の悩みで悶々とはしていたが。本当はこういうのは苦手だ。

  「そうだよな。初対面のおっさんに悩み打ち明ける中学生なんていないよな」

  さらにビールを喉に流し込んだ。

  一心の父親から電話があったのはひと月ほど前だ。

  父親は朝沼といって同級生だった。真崎がなんらかの取引をやっているということを知っていた。しかし、それが何かは知らないようだった。真崎がやってるのはFXであった。 

 ただこういうのをやっていると知っている人物からの電話に真崎は警戒した。金の無心かと思ったのだ。しかし、作家をやっている朝沼からの電話の目的は違った。

  息子が個人投資家になりたいと思っていて、話を聞いてやってほしい、とのことだった。 

 朝沼の家は、川沿いの住宅地にあった。川の脇には葉の茂る桜が並んでいた。

  真崎には朝沼の家を端的に表現する言葉は持っていなかった。基本が洋風だが、外壁が漆喰になっていて、柿渋塗りの柱がむき出しになっていて目立つ。玄関の壁には、丸い、魚眼レンズみたいなガラスがはまっていた。玄関から入り口の柵までは飛び石が短く続き、柵の前にはヤツデが植えられている。家全体はなまこ壁の高い壁に覆われている。真崎には全体的に洋風の蔵のように見えた。

  重い玄関を開けると、奥さんが出てきた。奥さんは、真崎や朝沼と同じくらいの年代の女性で、ひどく愛想がなかった。いや、真崎が歓迎されていないのかもしれないと思った。

  リビングで飲みながら少し呑んだ。朝沼はウィスキーのロック、真崎はビールだった。

  お互いの仕事のことを話した。

  朝沼は真崎の仕事によほど興味があるのか根掘り葉掘り聞いた。なんとはなしに、もうコイツとは会うことはないのではないか、と直感した。だから、正直になるべく話した。なんとなく、こういう時は昔話をするもんだと思っていたので少し意外だった。

  そのうち息子が帰ってきた。紹介された一心は黙ったまま、頭を下げた。なんとなく愛想のなさが母親似だなと思った。

  そして、「お前、真崎さんに話を聞いてもらえ」とかなんとか朝沼に言われて、渋る息子と真崎は屋上に二人きりにされたのである。


  一心は黙りこくっている。それを真崎は横でじっと待っていた。

  どうして自分はこんなことをしているのか。こんなの、親である朝沼や担任の教師がやる仕事だろう。門外漢が顔を突っ込む話ではないではないか。 「担任の先生には悩みは相談していないの。先生に相談してみなよ」

  教師に押しつけようと、真崎はそう言った。

  「どちらかというと、先生の言葉で悩み始めちゃって」

  やぶ蛇だった。話しやすいように仕向けてしまった。風が出てきたのか、遠くで風鈴の音がする。

  「先生がね、『働き方には二つある』とか言い出したんだ」

  なんだか面倒そうな話だ。

  「教師の言うことなんて話半分に聞いてりゃ良いんだ」と思わず言った。「だって、おじさんが先生に相談しろって言ったよ。なんできちんと話を聞く必要がない人間に相談しなきゃいけないんだよ」

  と揚げ足を取られる形になって、かちんときた。思わず、一心の頭をひっぱたいてしまった。その直後まずいと思って、拝むようにして謝った。一心は頭をさすりながら、「いってえなあ」と言って怒っている。「お前、言い方が悪いよ」とかなんとか言い訳をしてしまった。「続けて」と話の先を促した。一心は戸惑う素振りをしたが、強いて続けさせた。

  「働くって、『働くことそのものが目的という働き方』と、『働いて金を得て、それで何かを達成する働き方』、の二つあるって、その先生が言ってたの。 

 たとえば、作家とかは文章を書くということが目的そのもので、人生がそれにあった形になってるんだって。ホリエモンとかもそうで、事業の拡大が働く目的なんだって。金儲けが最大の目的であるように見える。でも、それよりもそのお金で事業を拡大させるほうが面白いんじゃないか。そういう生き方もあるんだよ。って。

  サラリーマンなんていうのはそうじゃなくて、サラリーを得て、それで家族を養ったり、自分の趣味に当てたりする。もちろん、それは否定されるような物じゃない。質の差だって」

  どこかで地表に落ちてゆく、断末魔のような蝉の声が聞こえた。

  「この話が後で問題になったんだよね。みんな親も他人の否定に耐えられるほど余裕がないから。でもさ、正しいよね。聞いてから、自分の進路に迷っちゃって」

  「確か、証券会社に行きたいんだろ」

  「それも正しい道なのか分からなくなって」

  証券会社に行きたくなった理由を聞いてみた。株式市場が経済のニュースなどと連動して動いている様子に興味を持ったらしい。変化をし続けている、そんな場所に行きたいんだ、と少年は語った。

  「IT業界だって変化しているじゃないか」

  「いや、もうITだっておじさんのものになっちゃったよ。場所を仕切ってるのがおじさんだろ」 若者の感覚に真崎は驚いた。

  「もしかすると個人投資家、いやデイトレーダーになりたいの」

  一心はこくりと肯いた。もっとも、そうでなければ真崎を呼ぶ意味はない。

  「おじさんはどうしてデイトレーダーになったの」

  一心は真崎の目をまっすぐに見つめて言った。

  真崎の父親はサラリーマンだった。家にいる父親を見たことはほとんどない。見るときは、疲れ切った顔をしているか、酔っ払って異様に陽気になっているか、どちらかだった。夜も遅くに帰ってきていた。

  特に酔っ払っているとき、真崎たち家族に父親は言った。

  「お前らのために自分は働いている」

  それがたまらなく嫌だった。本当は父親自身がそのことを誇りに思っているのだろうと、今は分かるが、子どもの頃の真崎には「お前らがいるから、オレは好きなことができない」言っているように聞こえた。まるで奴隷だと思った。会社からいじめられているのだと思った。父親のようになりたくなかった。

  高校を卒業して、周囲の反対を押し切って、フリーターになった。同時に独り暮らしを始めた。家族との折り合いが悪くなったのだ。いくつかのバイトを掛け持ちしていた。どちらかといえば、人余りの時代で時給が低かった。掛け持ちしないと、生活が困難だった。

  二〇〇〇年頃だったと思う。FXという金融商品が話題になった。コンビニのバックスペースに積まれていた金融系の雑誌「お宝ガイド」の表紙に大きくFXと書かれていた。気になって、深夜シフトの休憩中に読んだ。その当時には、もう人と関わるのに嫌気がさして、独りシフトだった深夜帯に入れてもらっていた。

  「お宝ガイド」には、少額の資金で投資ができること、レバレッジの意味はわからなかったが、それのおかげで大きく稼げること、などが書かれていた。 

 なけなしの資金を突っ込んでFXを始めた。どうせ周囲に相談しても反対されるのが分かっていたので、誰にも相談しないで始めた。 

 世間では酷い目に遭った人間も多かった。業者のなかには持ち逃げ同然に倒産する業者もいた。ロスカットの仕組みがよく分からなくて、大損するものもいた。それでも、ライブドア事件辺りまでは比較的稼ぎやすい時期で、それまでに資金を増やした。そこからも東日本の震災など大きく相場が変動するリスクもあったが、なんとか生き残った。

  始めの安アパートから、住む場所だけはよくなった。ずいぶん前にバイトも辞めた。

  両親との関係は改善してない。いや、悪いまま放置していると言って良い。 

 両親との関係は伏せようかと思ったが、それではどうして投資を始めたか、一心がイメージをつかめない。だから包み隠さず話した。金持ちでなくこのような投資を始める人間はどこかで歪んでいる部分があると、真崎は思っていた。もちろん、真崎も含めての話だ。

  「そんなことしてなんの意味があるの」 

 条件反射的にまた一心の頭をはたいてしまった。一言で人生を全否定された気がした。今度は謝らなかった。

  「いやそうじゃなくて、さっきの話に戻ってよ。二つの働き方でいったらどっちなのかと思って」大きな声で一心は否定した。

  そういや、どっちなんだろ。 

 後者ではない。趣味はないし、家族は実質持っていない。 

 前者なのか。ただお金を増やすことが目的の働き方・・・・・・。どれだけさもしい生き方なんだ。 

 FXはどこまでいっても、投資というより投機、つまり博打の要素が強い取引だ。相場の動きなんて正確に読めるものじゃない。仕事の意義なんて考えたことがない。儲かっているのだから性格的に向いてていいだろう、というくらいしか考えていなかった。 

 そうか、どちらかを満たせない生き方は、落ちこぼれなのか。

  落ちこぼれだから、人と会いたくないのか。

  自分は他人より上だから、引きずり下ろされるのが嫌で会いたくないと思っていたのに、どこかで自分のコンプレックスを自覚していたのか。

  向いていると思っていたが、そんなものただの運だ。いつ反転するかは分からない。そう思ったらなんだか怖くなってきた。 

 「大人も迷うんだね」

  今度は拳骨で殴った。クソガキの一言に惑わされている自分を恥じた。「いってえな、もう」と言いながら、クソガキは去った。入れ替わりに朝沼が隣の席に座った。ずいぶん暗くなって、部屋の明かりを背にして座った二人はお互いの顔をはっきりと見ることができなかった。

  「解決してくれたか」朝沼が腰を下ろしながら言った。

  「いや、何も。話すことは話したけどね。逆にオレの方が迷っちゃったよ。まったく。どうしてオレなんか呼んだんだ」 

 「いじめってやった方はおぼえてないんだな。許せないんだよ。お前が、苦労もせずに金持ちになったって聞いて。復讐しようと思ってさ」

  近くの花火大会が始まり、シャンパン色の大量の花火が上がった。後ろで、始まった、始まったと一心と母親が騒いでいる。

  真崎は、花火に照らされた悽愴な朝沼の顔を凝視したまま、動けなくなった。 

――了――(四七七九文字)

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