アンブレラ

 黒いリュックから定期のパスを取り出して、駅舎に一つしかない自動改札に押しつける。電子音が鳴って、ゲートが開く。
 田舎の小さな駅舎は午前中しか駅員がいない。
 左に曲がり、目線の高さにあるホームを右手に眺めながら、歩くと跨線橋がある。階段を上がる。左手にコンビニが見える。その向こうは闇に沈む住宅地だ。
 跨線橋自体はホームの下り側に寄っている。
 階段を上りきって、橋を歩きながら、上り側を見ると、いつも空母のデッキを想像する。中央部よりも上り寄りにブリッジのように待合室がある。跨線橋の上からは、駅舎の前のモータープール見える。タクシーはいない。一駅先の大きな駅に行っているのだろう。電車が来る時間帯でもなく、迎えの車もいない。
 ホームの上へと続く、跨線橋の階段を下りながら、左手を見ると、反対側は住宅街だった。車が通れる道には点々と白い街灯が並んでいたが、しょんぼりとうなだれるようで、足下しか照らしておらず、それ以外の光は闇に吸い込まれている。まるで滑走路の誘導灯のようだった。
 今夜のように雨が降っているときは二カ所待つところがある。ホームには屋根なんて付いていなかった。一つはこの跨線橋の下、もう一つはブリッジのような待合室である。階段を下りながら待合室を見ると、六人も座ればいっぱいになってしまう小屋のなかに男女数人がいて大騒ぎしていた。なんとなく、近くの工業高校の生徒か、隣駅から乗ってくる私立高校の生徒である気がした。そんなヤロウが女子高生とよろしくやっていた。そんなところに近づきたくないので、跨線橋の階段の下に入った。
 跨線橋の下は周囲の夜よりも暗かった。
 目がだんだん慣れてくる。
 階段の下に何かが置かれていた跡があった。大きな灰皿だったと聞いた覚えがある。だが、それを教えてくれたのが誰だったかは思い出せなかった。
 着ている学ランの右腕の表面を撫でてみる。この辺りの高校でも学ランを制服にしている学校も珍しい。右腕の表面は梅雨時の霧雨にじっとりと濡れていた。しかしなかのワイシャツまでは浸みていなかった。リュックのなかからタオルを取り出し、髪型も気にせずガシガシと拭いた。そのまま学ランの表面もぬぐった。無駄だろうが、多少は乾くのが早くなるかもしれない。
 拭きながら、衣替えの移行時期でたまたま学ランを着てきてよかったと思った。ワイシャツだけだったら大変なことになっていた。
 学ランの脇のポケットからスマホを取り出し時刻を確認した。電車がくるまで三十分くらいあった。
 正面の住宅街の方を見る。
 暗闇に沈んでいるが住宅街のなかには友人たちの家もある。
 どうせ自分とは関わりのない、スマホのニュースを眺めて過ごす気にはなれなかった。TwitterやLINEを見ても、今夜は皆が自分のことを好奇の目で眺めている気がして、もっとも自意識過剰だろうけど、SNSに近づく気になれなかった。何事もなければSNSは楽しいが、何事かあった日にはSNSは地獄だ。
スマホをポケットに滑り込ませて、正面の暗夜を見つめる。霧雨の降る音と虫の声、カエルの合唱が聞こえる。空を見ても厚い雨雲が見えるばかりで、星なんて見えるわけもなかった。
 階段の一番鋭角になったところの地面に黒い塊があった。暗がりでそれがなんなのかわからなかった。が、スマホのライトを当てて見たら、雀の死骸だった。大量の蟻が集っていた。
 頭上の階段から誰かが降りてくる音がした。足音から女性だろうと推測した。少し緊張してきた。このまま誰にも会いたくなかった。
気づくとブリッジの小屋の乱痴気騒ぎは収まっていた。どうして収まったのかを想像して、股間に血液が凝集していくのを感じた。
 もしも想像が当たっていれば、階段を降りてきた女性は跨線橋の下に来るだろう。まだ電車がくるまで二十数分もある。屋根のないホームで傘を差したまま待つのはしんどいだろう。小屋へ行ってバカな高校生の行状を見たいわけがない。
 足音が階下までやってきて、そのまま迷いなく跨線橋の下へとやってきた。
見るとボクと同じ学校の制服を着た女子だった。ずいぶん小柄で、身体にあっていない、大きな黄色いジャンプ傘を差していた。
階段の下に来て、僕と並んで立ち、傘を閉じた。闇夜に隠れて彼女の顔は見えなかった。ただシルエットがどこか、見覚えのあるものだった。髪はショートカットだった。
 「コウスケ君、これから予備校に行くの?」
 わからない相手に名前を呼ばれ、一瞬戸惑った。ただやはり声に覚えがあった。それに呼んでいるのだから、少なくとも向こうは知っているのだろう、だから大丈夫と、なんとも奇妙な理屈で自分を納得させた。
 「いや、イラつくからどっか行こうかと思って。君は? 帰り?」
 「ううん。コウスケ君がイラつくっていうから、一緒にどっか行こうと思って」
 と、理解に苦しむことを言って、「ふふふふふ」と照れたように鼻で笑った。少し鼻にかかる声をしている。高校生にしては大人の女性の声だ。低いわけでなく、太いわけでもない。なんとも形容し難いが、大人の声だ。なんだか甘い声だった。
 そう言われてうまく返せなかったのが半分、女の人と一対一で話すのに慣れていないのが半分で、話が続かず、変な間が空いてしまった。
二人の間の静かな時間と空間を埋めるように、霧雨が優しく周囲に触れる音がした。これだけ近くにいれば、お互いの体臭すら感じられるだろうに、雨の匂いしかしなかった。
 「コウスケ君、どうして傘持ってないの。朝から降ってたでしょ」
事情を知ってか知らずか、彼女はそう言った。ボクのイライラの勢いが少し増した。
 「どうでもいいでしょ、そんなの」
 ボクはぶっきらぼうに応えた。
 「ふられたんでしょ」
 知ってるのに聞くな、と思いながら、それには何も反応しなかった。
 「でもふられるのも仕方ないね」
 聞き捨てならないことをぬかしやがった。
 「だって、コウスケ君のこと好きな子、ほかにいるんだよ」
 「ほかって誰よ」
 「――――」
 彼女は何も言わず、暗く沈んだ家並みを眺めていた。こころなしか、風が吹いてきて、時々雨が跨線橋の下にも吹き込んでくる。
 「いや、黙ってちゃわからないよ」
 『私』とか言っちゃうのかな、と思いながら聞いた。
 少し間が空いて、彼女がある女子の名前を挙げた。意外な名前だった。
 「知らなかった・・・・・・。でも関係ないだろ」
 そう。誰か他の女子が好きでも、自分が気に入れば付き合えばいい。それに、ボクが告白した女子と出てきた名前の女子が特に仲がいいという印象もなかった。
 「・・・・・・ま、男子にはわからないかも」
 鼻で笑ったような音がした。二人は並んで立っていた。
 顔は見ていない。が、見てもどうせよく見えないだろう。
 「女子には女子の世界があるのよ。
 あの娘に喧嘩売ったら、ウチのクラスでは生きていけない。
 たとえコウスケ君のこと好きでもね」
 聞いていて、昔の遊郭の世界みたいだ、と思った。「吉原炎上か」と内心突っ込んだ。見たことないけれど。
 「でも私なら大丈夫。あなたを守ってあげるから」
 強い風が吹き込んできた。
 目の前で大きなものが視界を塞いだ。
 彼女がジャンプ傘を開いたのだ。
 目の前が真っ暗になった。
 背中に鳥肌が立った。
 脇を見ると、小柄な彼女が屈託のない笑顔を浮かべているのがはっきりわかった。
 真っ暗なのに、三日月のような目が光り、白い歯が浮かんでいた。
 いつだって、私が傘に入れてあげる。
 私はあなたがいるから輝けるの。
 あなたの悲しみが私の悲しみ。
 怖がらないで。
 傘に入って。
 闇夜よりも暗い闇の中、彼女は笑みをうかべながらそう言った。
 ボクは怖くなった。後退りして、後ろに逃げようとした。だが、ボクの後ろがすぐにホームの突端に行き当たることを目の当たりにした。彼女は顔だけこちらに向けて、まだ屈託のない笑顔を浮かべている。
 怖い、怖い、怖い。
 幸い、彼女はホームの上り線の方に寄って立っていた。
 ボクは下り線の方に大きく迂回しながら走って、跨線橋を目指した。待合用の小屋には誰もいなかった。階段を急いで駆け上がり、跨線橋の反対まで走った。階段を下りながらホームの方を見ると、彼女がまだ立っていた。こちらを見て笑っていた。
 ぞくぞくしながら駅舎に走った。もしかすると引っかかると思ったが、自動改札はそのまま通過できた。
 小さな田舎の駅舎の前で、迎えにくる車を見て少し安心した。

 家に帰って翌日から高熱を発して寝込んだ。
 彼女がボクのことを守ると言ったときに感じた寒気は、風邪のせいだった。
 風邪をひいた原因を、母親から詰問された。母は変わった人で、自分の息子はいきなり完全な人間として生まれてこないと許せない人だった。小さな頃から、忘れ物をしたり、何か粗相をしたときに、「どうしてこんなこともできないの」と怒られた記憶は数多くある。だが、例えば忘れ物をしたとき、どうしたら忘れ物がなくなるのかは教えてくれなかった。
 小さな頃からそうだったので、もう慣れっこになり、母親には何も期待しなくなってしまった。
 ただ、小さな失敗をすると、母親の怒った顔を思い出した。
 今は、病んだ息子の目の前でその顔をしているのだが。
 嵐のような母親の詰問をかわした後、熱にうなされながら彼女のことを考えていた。
 ふられたのであるが、自分をふった相手のことは何も浮かんでこなかった。そのことに気づいて、我ながら苦笑してしまった。
昨夜のシルエットが誰であるか。
 逃げながら見た、ホームに黄色い傘を差しながら純粋でまっすぐな笑みを浮かべながら立っている姿、そのシルエットを思い返していた。
 病院へ行って薬をもらってきたのだがどうにも効かず、夕方になっても熱は下がらなかった。
 夜になって両親が枕元で、「あの医者藪だったのかしら」とか、「別の病院に明日連れていく」とか、目の前の病人を不安にさせるようなことを散々言った。
 自分が大病に罹った気がして不安になったが、救急病院に連れて行くとか言いださなくてちょっとほっとした。
 街の救急病院は周囲の病院から派遣され、日によって担当が変わるのだが、ひどい担当医になると、診断より大声の説教のほうが長くて、ろくに見てくれないことがあると噂だった。
 夜になると、頭がぼうっとしてきて、熱のせいで眠れなくなった。頭に孫悟空の輪っかを嵌められたみたいな感触がして、こめかみがずっと脈うっていた。
 「大丈夫、私が守るから」
 という彼女の言葉があの暗闇の笑顔とともに頭のなかをループした。
 その声を夢うつつの状態で何度も聞いていて彼女が誰か思い出した。
 高校一年、去年の話だ。
 昨日のような霧雨の降っている日に、高校の裏手門あたりで、歩道を走る原チャに突き飛ばされたのだ。ボクはその光景を目撃した。もちろんその原チャがやっていることは違法行為であった。雨に濡れた歩道にあの黄色いジャンプ傘がk転がっていた。周囲にいた生徒たちが彼女を救出して・・・・・・。そのあとが思い出せなかった。彼女に大事はなかったのか、いや死んでしまったのか。それが思い出せなかった。同じクラスの女の子であることは間違いない。彼女が言った女子の名前、ボクを好きらしい女子。逆らえない、と言われて、高熱にうなされながら、人間関係が整理されて行くのがわかった。女子の間にあるヒエラルキー。なんとなく意識していたにもかかわらず、言語化されなかったこと。男子にはわからない。そう、クラス内のカーストのモデルは女子のものだ。男子はあれほど単純ではない。英語の課題をどうしよう。期末まで時間がないのに。
 高熱にうなされながら、そんな思念が頭のなかを飛び回った。
 熱が下がるまでに五日を要した。
 まだ気怠さがあるなか、学校に行くと、
 校門の前に彼女がジャンプ傘を持って立っていた。

--了ーー(四七二八文字)

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