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3. 何とかなる。と言うより、何とかするの。

世の中にはたくさんの言葉で溢れている。
著名人の言葉、偉人の言葉、漫画・アニメの主人公の言葉…
そんな中で共感した言葉を見つけることはあるだろう。今日はその中から、僕の人生を変える大一番での気持ちを表現してくれた言葉を紹介いたします。
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今回紹介するのは、自分がよく口にする言葉です。それも誰かが言っていた訳でもなく、自然と口にしていた言葉です。
なぜ、こんな言葉を口にするようになったのか、そのルーツを辿ります。

“楽観主義者”な自分

これまで僕は、多くのターニングポイントを迎えてきた。
中学受験、高校での部活決め、大学進学時の学部決め、大学院受験、大学卒業後の進路…もちろん、ドイツリーグへの挑戦を決めるのも大きな分岐点だった。そんな中、僕の思考回路は周りが考えているよりもかなり楽観的だったらしい。

片鱗は既に小学生の時から

それは遡る事、中学受験の時だ。
小学4年生の後半から都内の個別指導塾に通う事になった僕は、中学受験に向けて勉強をするようになった。

算数は得意だったが、国語が苦手で、特に長文読解で作者の考えていることなどを引き出すのが、非常に苦手だった。当時担当してくれた国語の講師は、2歳上の兄も教えていたこともあり、僕の特徴もすぐに掴み、みるみる国語の成績は上がっていった。
その他の教科(理科、社会)も、当時の担当講師のおかげで成績もだいぶ上がった。だが、それでも第一志望校(慶應義塾中等部)に受かるかどうか、かなり怪しいラインだったらしい。(後に、講師たちから聞いた話で分かったことだ。)
そして、運命の2月を迎えるのだ。

塾の講師たちを不安に陥れた行動

最初の受験日、2月1日を迎えた。
当時の志望校のリストを書くと、以下の通りだ。

  1. 慶應義塾中等部(以下、中等部。受験日:2/5)

  2. 慶應義塾普通部(以下、普通部。受験日:2/1)

  3. 慶應義塾湘南藤沢中等部(以下、湘南藤沢。受験日:2/3)

滑り止め?そんなもの、我が家のルールには無い(笑)
文字通り、これらの学校へ行けなかったら、地元の公立に通っていた事だろう。そんな中迎えた、普通部の受験日(2/1)を迎えた。

中学受験を経験した人間なら分かると思うが、学校ごとで問題の出題傾向が違い、それに対しての問題対策も異なるのだ。それは、同じ系列校であっても存在し、普通部・湘南藤沢・中等部では全く異なっているのだ。
第一志望が中等部の僕は、普通部の出題傾向は多少かじっていたぐらいで、対策と言う対策は正直あまり出来ていなかった。無論、中等部に受かるつもりで勉強している訳だから、そこまで心配していなかった。
だが、この考え方が周りと既に違っていたのだ。

受験が終わった翌日、2月2日。普通部の合格発表があった。
その日は次の志望校:湘南藤沢に向けて、塾で勉強していたため、母親が代わりに合否を確認しに普通部まで見に行ってくれた。塾から電話で確認した結果は、不合格だった。
それを塾の講師に報告しなければならないのだが、当時の僕はこう言ったそうだ。

「(ヘラヘラ笑いながら、)すみません、普通部落ちちゃいました。
まぁ、でも、中等部に行きたいから大丈夫です!」

「いや、何が大丈夫なのよ!」と、当時の僕にツッコミたい(笑)
まず、ヘラヘラ笑いながら報告する事じゃないだろう。なのに、僕は笑いながら、しかも塾講師たちにプレッシャーを与えるかのように、「中等部に行きたいから」などと言っていたらしい。(塾講師談)
周りの同級生たちが志望校に落ちて泣いている姿を何回も見てきたのにも関わらず、ヘラヘラしていたらしい。その言葉を聞いた担当講師たちは、頭を抱えるぐらい、残りの2校の受験対策を悩んだとのことだ。

そして、受験は中等部一点絞りに切り替え、湘南藤沢の受験を蹴った。
もう中等部に受かるか、落ちるかの状況になったのだ。そして、そこで驚異的な集中力と精神力を発揮したらしい。
そう、「何とかなる。と言うより、何とかするの。」という考えが身体に染みついた瞬間だった。

迎えた中等部受験日

湘南藤沢の対策を蹴り、中等部一点集中で対策をし、迎えた2月5日
受験会場には、小学校の同級生がたくさんいた。当時僕が通っていた公立の小学校は、港区内でもトップの進学校だったのだ。

一次試験の受験科目は、算国理社
社会は少してこずったが、理科はまぁまぁ解け、得意の算数と国語で点数を稼げたと思われる。

一次試験は何とかクリアし、二次試験へ
試験科目は体育と面接だったが、内容が面白かった。
体育は、体育館の往復ダッシュバスケのチェストパスとドリブル跳び箱、そして1人ずつ仕切られたブースで紙に書かれたラジオ体操の動作を読み、試験官の手拍子で動くというテストだった。
これらのテストは難無くクリアした。運動神経がそこそこあったことに感謝したい。

面接は、1人対試験官3人、親子3人対試験官3人の2回の面接があった。親子面接の面接官が当時の校長と兄の所属するラグビー部の部長先生だった。
試験官の「(お子さんの)良いところはどんなところですか?」という質問に対し、僕と父親が「人に対して優しくできることです」と答えると、母親に対しての最後の質問が「他に何かありますか?」というザックリした質問だったのを今でも覚えている(笑)

2月10日、中等部合否発表日

いつも通り、小学校に行って授業を受けた。放課後、学校の公衆電話から母親に電話をかけた。

結果は、合格していた。

母親から「合格発表の掲示板、見に来る?」と聞かれ、「見に行く!」と即答し、家に帰ってすぐに中等部まで見に行った。
中等部に到着すると掲示板の撤去が始まろうとしていた。だが、当時の担当学生が「見ていかれますか?」と声を掛けてくれたので、自分の受験番号が書かれた合格発表の掲示板を見ることが出来た。

その後、すぐに通っていた塾に電話した。弾むような声で「中等部受かりましたよ~!」と報告したのを覚えている。その時に、塾講師たちは不安からきっと解き放たれた事だろう(笑)
これまでの僕の行動を見ていた塾講師たちの不安の大きさを今考えたら、本当に申し訳ないことをしたと思う。

これを皮切りに…

楽観的な考え方を小学生の頃から既に持ち合わせていた僕は、その後訪れるターニングポイントで、「何とかなる。と言うより、何とかするの。」とい考え方で切り抜けてきた。

大学院受験で内部進学生は9割受かると言われた試験で落ちた時も、
その後すぐに始めた8月の就職活動の時も、
ドイツで働きながらホッケーが出来るという誘いを受けた時も、
頭の中には、いつもこの言葉が共にあった。

もちろん、何とかならない時もあった。
だが、その度に「ピンチはチャンス!」という言葉が頭をよぎり、「何とかするの!」という気持ちが強くなって、ここまで生き延びてきた。
まぁ自分には運があると思っていたことも大きく作用しているとは思うが、それでもこの考え方で多くの分岐点を乗り越えてきた。

これから何かに挑戦する人へ

もしも何かに挑戦しようとした時、自分に言い聞かせてみてください。
「何とかなる。と言うより、何とかするの。」と。
僕は少なからず、この言葉のおかげで、緊張せずに挑戦は出来ました。
そして、この言葉には、自分の覚悟も上乗せしているという自覚が出ます。
覚悟がある人は、自分の道を切り拓ける可能性が必ずあると思います。

Viel Erfolg und Glück für alle Herausforderungen!
皆さんの挑戦に成功と幸運を!

Stuttgartから応援を込めて
込山優

ここでサポートして頂いたものは、ドイツでのジュニア指導ならびに選手としての活動費として使わせて頂きます。 皆様からのサポートに応えられるように、日々精進して参りますので、よろしくお願いいたします。