作曲者、演奏者、聴者

それぞれの役割

タイトルにもあるように、音楽では作曲者と演奏者と聴者はそれぞれ別な人が行うことが多いものでした。

作曲者、演奏者、聴者には、それぞれ役割があります。作曲者は楽譜に黒い点を描く人、演奏者は楽譜を解釈し楽器を弾く人、聴者は演奏者が弾いた楽器の音を聞く人。少し極端なまとめ方ですが、大雑把にいえばそうです。もちろんそれぞれに「スキル」があります。楽譜に置く音符の仕組みは西洋では過去からの積み重ねで様々なパターンやルールがあり、それが体系的に人類の知識として存在しています。演奏者もその作曲者の意図を読む、あるいは独自に解釈して演奏者としてのオリジナルな個性を奏でるケースもあります。意外かと思われると思いますが、聴者も同様です。聴くのはスキルが必要であり、解釈も必要です。「好み」と同様に「知識」も必要なのです。

一つ例をあげると、僕は印象主義、ラヴェル、ドビュッシー、サティが大好きなのですが、その一人、ラヴェルはボレロを作曲した人でもあります。ボレロという曲は様々なBGMとして利用されることが多いですし、21世紀になってもコンサートで演奏される曲で一般的に馴染みがあると思います。そのボレロ自体も極端で当時は面白かったと思うのですが、そのボレロの演奏者に僕のおすすめの指揮者の演奏があります。チェリビダッケという指揮者です。


それぞれのスキル


チェリビダッケという指揮者の演奏するボレロは普段のボレロとは異なります。ボレロは風変わりな曲で一定のテンポに従って同じフレーズを繰り返すだけの曲です。これを作曲した当時、演奏者は「早いテンポ」で演奏したと聞いたことがあります。それは理解できます。同じフレーズなんて退屈だろうと演奏者が解釈し早いテンポで演奏したと思われます。ただ、21世紀はボレロが理解されるため、いわゆる通常のテンポで演奏されます。これは同調圧力に似た現象ですね。世間の一般常識を踏まえて、「退屈だから早い方がいいだろう」と勝手に一般聴者の感情を解釈し演奏しました。面白い現象で時代固有のバイアスですね。

ただし、このチェリビダッケという指揮者は違います。ボレロを圧倒的に「遅く」演奏させるのです。チェリビダッケは他の曲もそうなのですが、ぜひ一度YouTubeやDVDで聴いてみると良いと思います。

チェリビダッケを見ているとわかるのですが、「厳格」「優雅」「大胆」が混ざった良い時間を提供してくれます。演奏中、最初からリズムについては厳格に指摘していますが、途中すぎ12:03あたりからリズムを完全に見失う時は圧倒的に厳格に指摘しています。この指摘している箇所は個人的に好きです。厳格に訂正した後は、仕切直しで笑顔でオーケストラを導きます。素晴らしい。最後に盛り上がった箇所では少しテンポが早くなっていますが、それも高揚感が出てとても良い。そして、その盛り上がりを指揮者自身が髪を振り乱して身体で表現し全員を導きます。

チェリビダッケの顔を見れば分かってくれると思うのですが、「チェリビダッケを笑顔にさせたい」という感情が湧き出ます。リーダです。こういうのを見ると映画のセッション whiplash trailer - YouTubeを思いだしますね!


*ちなみにビデオのウェブ視聴サービスが増えていますが、こういうオーケストラだけのサービスもあって良いと思います。家具の音楽のウェブ版です。

もう分かると思いますが、指揮者一つとってもただの「翻訳者」ではありません。またこれを聴く聴者も同様なのです。それぞれがそれぞれのスキルを養い、それが人生、ひいては人類を豊かなものにする。毎日の積み重ねが全てです。アルフレッド・コルトーというピアニストの名言に「一日練習しなければ、自分が気づく。二日だと、批評家が気づく。三日になれば、観客が気づく。」とありますが、ピアニストだけはありません。作曲者、演奏者、聴者の全員がその対象と言えます。


21世紀は「一人」が台頭している時代


上記で簡単に説明した作曲者、演奏者、聴者の三つの要素は音楽家のジョンケージが全てを全く変えてしまいました。ジョンケージは無音の音楽を作曲した人です。彼は「作曲者、演奏者、聴者の区別は無くなる」という意図の発言をしています。現代はまさにそうなっていると思われます。それらの境目はほとんどありません。

現代はコンピュータで作った曲を自分自身で聴くというスタイルが増えています。おたく的な楽しみ方です。自己満足と言えますが、立派なアーティストと言えます。自分自身のために作曲し、自分自身のために演奏し、自分自身が聴く。全て満たしています。自分自身とのコミュケーションとも言え、インターフェイスとして音楽があります。また、ジョンケージより前にエリックサティという作曲家もいました。彼は「家具の音楽」というコンセプトを提案した人でもあります。音楽は家具のようになるとも言えるコンセプトですが、どうでしょうか?21世紀の僕らは「家具の音楽」に心当たりはありますよね。これらは作曲家、演奏者、聴者の関係を全て変えて存在しています。

アプリなどのサービスも同様です。昔はスーツを着た人がプレゼンしてお金を集め、その後サービスを開発しリリースしていました。いまは一人でサービスを開発し、リリースできます。その後、スーツの人が来てパーティーを加速させて盛り上げます。一人で出来ることが増えすぎた時代とも言えます。

いつの時代も登場人物は同じですが、登場人物の役割は時代とともに変化していると言えます。


ツール、サービスに試されているという考え方


作曲者がプロダクトだと考えると、演奏者はユーザです。どんなサービス、ツールでもそれぞれが思い通りの使い方をしています。ユーザも価値を感じそのツールを使っているはずです。つまりメリットがあるから使っている。ただし、時折オカシナ現象に遭遇します。

洗濯機に入れてはいけない物をいれたり、電子レンジで温めてはいけない物を温める利用者がいるのです。訴訟になったケースもあります。こういったケースについて、僕は「演奏者のスキルが足りなかった」といつも思います。演奏者としてのユーザの「前提知識」が、良いプロダクトを台無しにするのです。洗濯機にいれてはいけない物などの例は、極端な例でしたが、これは程度こそあれどんなサービス、ツールでも当てはまります。

誤解を恐れずにいうと「使ってはいけない人は存在する」のです。

僕はOnefuncというプロダクトをデザインし、プログラミングして作っている人でもあります。少し傲慢な意見と思われる人がいると思われます。ですが、客観的に見て事実ですから書き続けます。

サービスやツールを使い始めるには「動機」が必要です。ですが「どうやって使うか」を演奏者側も理解して使う必要があると思っています。そして、その「どうやって使うか」をあらかじめデザインしておく必要もあると思うのです。そして、そのためにマーケティングがあると考えます。前提知識を事前に学ぶ。ここでの「学ぶ」という文字は、「学ぶ」と言っても広告等で「なんとなく理解する」程度です。つまり「使える人とそうでない人を区別する」そして「使ってはいけない人を使っても良い人にする」ためのアクションと言えると思います。

「使ってはいけない人を使っても良い人にする」ためには製品のデザインも必要です。

ボタンに書く文字は?ボタンの色は?ボタンの位置は?現代の一般常識の「ボタン」を考慮すると?そもそもボタンを用意するべきか?ボタンではなくてスワイプでは?

ボタン一つにも文脈があり、様々に考えられる、そして改善すべきデザインは存在します。それは「使ってはいけない人」に対する「歩み寄り」とも言えます。違った言い方をすれば「アクセシビリティ」を拡張し「ユーザビリティ」を最適化することです。

「歩み寄り」という言葉を使いましたが、製品にとって作曲者、つまり開発者は「神」と言えます。そもそもデザインは傲慢なのです。

ユーザの生活に介入する権利を与えられているのが製品です。その振る舞い方を定義するのが開発者です。ユーザの自己制御権を定義すると言っても間違いはないと思います。つまりアーキテクチャを定義する要素を生み出すことです。それは慎重になる必要があります。一歩間違えれば利用してくれているユーザの人生、ひいてはその業界、市場、社会を台無しにするからです。


例えばアフォーダンスという幻想はやめにしよう。という案


確かに本能的に椅子やドアノブと思う形は存在します。ただし、それも文脈によると考えています。

優秀なデザイナは自問自答します。「根源的には何がユーザの価値になるのか?」大抵のデザイナーは、アフォーダンス、その後のシグニファイヤという言葉を見つけ興奮します。そしてその初心者のデザイナーは猿のようにアフォーダンスという言葉だけを求め、使い始めます。機能主義も同様です。自分自身で消化できず、振り回されるケースです。

僕は全て利用者の文脈に依存していると考えています。つまり作業記憶、短期記憶、長期記憶です。その接触点が製品でありサービスであって、その解釈は詳細に見ると1対1の関係であり1対Nではないと考えます。例えばターゲットユーザを想定することや、カスタマージャーニーを作ることは1対1を意味しています。

アプリ上のボタンさえもです。例えばアプリ内の一つの画面だけを見てUIを評価する行為は愚の骨頂だと思います。それにフィードバックはコンセプト設定から完成までのそれぞれに異なった意見をユーザは答えるものです。つまり、コンセプト段階では「その製品欲しい」と共感する場合があっても、完成品に対するフィードバックだけしかしない場合は細かなボタンの色だとか、そういった細部だけを見て製品を気に入らないと判断する傾向があります。本来はユースケースをイメージして目立つ色にするべきところを「おしゃれがいい」という理由でイマドキっぽいフォントや色にしたりします。


話をまとめると


とりとめのない文章になりがちですが、頭の中を垂れ流ししているので申し訳ないです。

主にこの文章では、作曲者、演奏者、聴者を例に「役割とその周辺」について書きましたが、ステークホルダーデザインにも共通して言えることです。人間の活動はたいていの場合は外部性も伴うため思わぬ第三者に影響しているケースが存在します。それぞれの立場で、真摯に努めていきたいですね。

ちなみに前述した猿のようなデザイナーの自己満は愛すべきものです。背伸びしている人を邪魔してはいけません。そっとしておきましょう。僕もそうですから!

この文章はOnefuncPaperからの転載です