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ヴィクトリーガンダム再考

 先日、『機動戦士Vガンダム』のBD-Boxが発売になりました。ヴィクトリーが好きな私としては、世間がこの作品を改めて見直すことを本当に嬉しく思っています。

 そして、もう一つありがたいことに私はこのBoxのブックレットに解説を書くという機会をいただきました。

 中学生の時、毎週欠かさず見ていた作品に、まさか自分が……。この機会を与えてくれた藤津さんにこの場を借りて心からの感謝を表します。

 で、今回書かせていただいたキャラクター解説。

 このウッソの項目には、富野監督のウッソ評を勘案して書いてみました。すなわち。

「大人にとって都合のいい子供として育てられたウッソは、戦いの中でその大人の思惑とは違った道を歩み出す」ということです。

 改めてストーリーを通してみると、ウッソは極めて優秀なパイロットであり、周囲の大人からの覚えもよく、「いい子」に見えます。

 しかし、監督は「いい子」を否定する。

「カサレリアという人気が少なくて自然の豊かな地に住んでいながら、彼はとても『いい子』として育った……それが正しいことであろうはずがありません」(『ニュータイプ100%コレクション Vガンダム』富野監督インタビューより)

 監督特有の捻った表現ではありますが、つまり大人に都合のいい子供が「いい子」なのか、そしてそれは子供にとって本当に幸せなのか、という問題を示しています。

「(Vガンは)大人の世代がもつ責任と子供の世代の関係を見せつけたかったのです」(同)

 大人が子供に自分の夢を仮託する。これは自然なことです。大人が営んできた世間と、それを継承する子供たちへの期待、そしてその大人の鏡写しの子供たち。これが監督の心に大きなテーマとしてあったようです。

 ただ、このテーマは単純には物語で表されません。

 舞台設定は、ウッソは両親と共にずっといたわけではないこと、そしてその代わりリガ・ミリティアの大人たちに囲まれていることとして展開します。

 これによって問題は「世代間」に発展している。

  

 ウッソには大人たちが傍にいます。

 ゴッドワルドやワタリー・ギラ、マチス・ワーカーといった敵パイロットたちとも戦いの中で触れ合い、その生き方に人生の教師としての姿を見出している。

 それは、ミューラやハンゲルグの育児放棄に近い姿と好対称です。

 ウッソは、常に自分が子供であるということを自覚し、大人たちを見て、それを受容し成長する。

 リガ・ミリティアの大人たちの要望に応えて、モビルスーツを乗りこなし、そして多くの敵を撃ち、また同時に、「敵を殺す」ことで大人を受け入れる。

 彼らに対して「悪い大人」として印象的に描かれているのが実父、ハンゲルグというのは示唆的です。

 もともとウッソの中での父像は、少年らしい憧憬に包まれたものでした。しかし、実際に再会した父は、成長した自分を見せたい、認めてもらいたい、というウッソを敢えて無視しているように見えます。

 その後、ウッソとハンゲルグは微妙な距離感を続けます。

 ラスト前、『憎しみが呼ぶ対決』の回で、エンジェルハイロゥを破壊せよと命令する父に対して、ウッソとシャクティは口では了解しながらも、それを無視します。父の判断ではこの戦場を救うことはできない、旧世代の考え(二万の命と人類を天秤にかけている)を彼らはこのとき、既に超越している。

 しかし、父の乗るジャンヌ・ダルクが沈没した時にはショックを受け、行動を止めてしまう。「ジャンヌ・ダルクに乗っていたのはジン・ジャハナムなんだ。僕の知らない人だ。そう思うことにする」というセリフはウッソの感情を端的に表しているでしょう。

「生き物は親を超えるものです。親は子を産んで死んでいくものなんです。その真理を忘れているこの作戦は、元々敗れるものだったんです」。

 ウッソのこのセリフは、「世代」同士の戦いと受け継がれるものをテーマとするこの作品の一つの真理だと思います。

 そして、最後の最後に迷った時、父を呼ぶウッソ。善きにしろ、悪しにしろ、そして好いていようが嫌っていようが、世代は移り、受け継がれていく。若者もいつか老い、変える側から守る側へと変わる。『Gレコ』でもそれは同じでした。

 ヴィクトリーのテーマは、なおも大きな意味を持ち続けています。

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