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愛と勇気は「言葉」

「言葉がね……大事なの」「言葉ですか」「そう。書くものはいつも三日は考えているんだ」

 これは私が直接富野監督とお話した時に聞いたものです(富野ファンは皆、そんな監督との思い出がある)。

 今まで監督の独特の台詞回し(富野節、富野台詞)については色々と語ってきました。

 あの切れ味の鋭いフレーズの数々は、限られた時間の中でいかにインパクトと「伝えること」を示すかということを磨き上げたもの。
 アニメは全て「人が描かないと生まれない」映像作品ですから、時間は短ければそれに越したことはない。だが短いと伝わるものも少なくなってしまう。

 短い時間でいかに「ドラマ」を描くか。
 そのために生まれたのがあの名言の数々でした。

 では他方、実写作品では。
 映画史研究家の春日太一氏が著作『市川崑と『犬神家の一族』』(新潮新書)において、市川監督はセリフを喋っている人が終わる前に次のカットに移り、それに次のセリフを被せていくという編集方法を用い、テンポのよい台詞回し、映画全体のリズムを生み出していると述べています。

 映画を観て「退屈だな」とか「つまらないな」と思う場面の多くは、我々が持っている生理的なリズムに対して進行のテンポが緩いからだったりします。特にセリフのやりとりの場合、日常であれば相手が言い終わるのをいちいち待ってから人はリアクションしません。だからテンポが遅く感じて飽きてしまう。それに、映像も動かないから余計に退屈に感じる。市川崑は編集によって、それを退屈ではないものにしていった。

 この「日常であれば」というところはポイントです。

 映像作品であれ、小説であれ、そこには「説明」がある。この日常会話にはない「説明」の存在が「退屈」を生み出している。

 市川崑監督はそれを「被せ重ねる」ことで、富野由悠季監督はそれを「削りトバす」ことで視聴者を飽きさせなくしている。

 例えば、『逆襲のシャア』の名シーンです。

シャア「世界は人間のエゴ全部はのみ込めやしない」 アムロ「人間の知恵はそんなもんだって乗り越えられる」 シャア「ならば、今すぐ愚民ども全てに英知を授けてみせろ」 クェス「そうだわ、それができないから」 アムロ「貴様をやってからそうさせてもらう」 クェス「ええい」 アムロ「あっ」 クェス「アムロ、あんたちょっとセコイよ」 アムロ「クェス」 シャア「行くかい?」

 これを書き起こしながら思ったのですが、これに余計な言葉を加えるとあのドライブ感が無くなってしまうのです。

クェス「アムロ、シャアの言い分、私はけっこう理解できるところがあるんだけど、なのにさ、銃を突きつけて『お前を殺してから』なんて、あんたちょっとセコイよ」
アムロ「クェス、やめないか」
シャア「君の思いは解った。君はアムロと共にいるべきではない。私と一緒に行くかい?」

 なんてつらつら言っていたら、カッタルくてしょうがない(加えたセリフは私の想像ですが)。

「解りやすくしょうとしたらもうポピュリズム」と山本寛(『涼宮ハルヒの憂鬱』演出)が話している。また自らの世代を評して「解りやすくしたがる世代」と。→https://note.mu/masashi3122/n/naef51e9b3569

 ……日常の中では会話は省略され、端折られる。それを演出の中で組み込み、リアリティに繋げ、視聴者に想像の余地を残し「ドラマ」にしている富野・市川両者の演出は、今も注目すべきものがあります。


 また、セリフのもう一つ大事な要素は「セリフと裏腹の心理を表現する」ことです。
 
 アムロは『めぐりあい宇宙』でシャアに対し「それは理屈だ!」と叫び、『逆シャア』においても「エゴだよ、それは」と終始、シャアの言動を理性で押さえつけようとします。
 しかし最後に、アクシズを押し返そうという異常行為に及ぶ。シャアにすら「馬鹿なことはやめろ」と言われながら。

 アムロは今まで理性的であろうと努め、それを口に出していながら、その末に理屈ではない行動を示す。そこにカタルシスが生まれる。
 
 「キャラクターが本音を出したときに、ドラマは動く」と言います。それまで様々な言葉でカバーされた本音がむき出しになることで、ストーリーが転換し始める。

「サラ、好きだァー!」

 これでストーリーが動き出した、かは別として(笑)。
 この名シーンが生まれた『キングゲイナー』17話のサブタイトルはズバリ、「ウソのない世界」。カシマル・バーレの駆るプラネッタのオーバースキル「伝心」によって心が読まれてしまう状態で、だったらとゲイナーが延々叫び続けた「本音」でした。

 ここまで赤裸々(笑)だと、観ている側は笑ってしまうわけです。

 自分の預かり知らないところで自分に対する愛を語られるサラと、そしてそれを祝福している周囲。この時、視聴者も同じように冷やかす側になっている。
 露骨に本音が語られることで「コメディ」になっている。

 だからこそ、本音を隠して虚々実々が繰り広げれることはドラマになる。


 しかし今、それが通じない世の中になっていないでしょうか?
 これまで映像作品の演出について述べてきましたが、チョット飛躍して、それを理解できない世代が現れていることについて考えてみたいと思います。

 役者が本音を隠した演技、もしくはセリフに本音を見え隠れさせる演技ができなくなっている、という話を聞きました。
 それだけ現代は「本音(らしきもの)」が溢れかえっていて、ホンネとそれ以外が区別できなくなっているのではないでしょうか。

 「今生きてるコたちは、本当に息苦しいです」。そう欅坂46平手友梨奈は話していました。SNSが広く普及し、常に繋がっている現代社会に生きる少年少女たちは、何を「息苦しい」(生き苦しい?)と感じているのでしょうか。

 10代・20代はSNSそれぞれの特性を利用し、使い分けている。インスタの自分、フェイスブックの自分、ツイッターの自分、ツイッターの別アカの自分、LINEの自分、グループLINEの自分。

 バラバラに使い分けてはいますが、それらは全て「本音」。

あいつがああだって言ってた こいつがこうだろうって言ってた 差出人のない噂の類 確証ないほど拡散する 意外にああ見えてこうだとか やっぱりそうなんだなんて 本人も知らない僕が出来上がって 違う自分 存在するよ(『エキセントリック』)

 欅坂46は中学生・高校生から高い人気を集めています。それはこの歌詞のような自分の意図していない「本音」が飛び交う世界の「息苦しさ」に共感しているからではないでしょうか。

 二人でダラダラと長電話をすることで少しづつ分かっていくコトもある。しかし、140文字のツイッターや、LINEで交わす短い言葉、それどころかインスタの一枚の写真から「本音」を読み取ろうとしている、いや、読み取るほどのコミュ力を身に付けている(身に付けさせられている)のがSNSがネイティブになりつつある現代人なのかもしれません。

 時間をかけて距離を縮めていく、その中で浮かび上がってきた「本音」から相手の本心に触れる。そういう回りくどいコミュニケーションはなくなりつつある。

 だから感性が敏感になりすぎていて(うわぁ、ニュータイプ的笑)、先読み・裏読みができなくなっている。もしくはしすぎて発信者が意図しないところで勝手に傷ついている。

 オモテに出ている言葉なんて、そんな大それたことではないんですけどね。裏切った・裏切られたと言われることでも、当の本人は最初からブレずに本心に従っただけ、なんてありそうなことです。

 言葉を交わすことには誤解もあるし、本心ではないことも口にしてしまうかもしれない。けれども大事なのはお互いを理解しなくてもいいし、分かり合う必要もないが、コミュニケーションを拒否せず存在を否定しないということではないでしょうか。『G‐レコ』で富野監督はそんなことを示してくれているように思います。

 監督は『Vガンダム』を「内向きの、閉じた」作品として嫌っています(『ガンダムの家族論』)が、あのラストシーンに私は微かな救いがあったと思えて仕方がないのです。

 何故なら、シャクティはカテジナを「道に迷った旅人」と評して、互いに近くに住まいながらも生きていることを否定はしていないから。

 認めることはできない。ただ共存することはできる。共存できないほど世界は狭くない。だからもっと世界の広さを知る。
 それが、コミュニケーションの力、言葉の持つ本当の力だ。
 ウソもある。溢れかえった「本音」に紛れてしまっている言葉もある。それもひっくるめて言葉の力なんだ、と。

 監督がG‐レコを通して、SNS時代の今を生きる「息苦しい」子供達に伝えたかったのは、そんなことなのかもしれません。

 なんてったって、監督自身が「G‐レコを劇場版にする!」と言い続けて、それを現実にしてしまった人なんですから。監督自身が言葉の力を体現しているんですよ。

 監督は今でも英語をマスターしたい、と思っているそうですが、古希を迎えても新しい世界を広げていこうとしている監督には、ホント、尊敬しかないです(笑)。

 あれ、結局監督礼賛になってる。


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