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心に冒険を

「もはや未踏が存在しないポスト・モダンの消費社会では未踏の征服などあり得ず、忍耐力、精神力、苦難に打ち克つ能力といった人間の側の尺度も問題にされない」(『マロリーは二度死んだ』メスナー)

 人類で初めて8000メートル峰全14座全てに無酸素登頂したラインホルト・メスナーの言葉です。

ラインホルト・メスナー(1944~)。 

この一文を読んだ時にショックを受けました。確かに、21世紀には征服されるべき土地は寸土も残されていない。それは人類始まって以来の時代なんだ、と。

 ほんの200年前まで、人類にとって世界は驚異と新しい発見に満ちていた。人はまだ見ぬ景色を求めて極地に、より過酷な環境へと足を踏み入れていった。

 そして20世紀に入り、その驚異的な科学技術の進歩に裏打ちされて人は一つ一つ、それらを征服していった。

 1909年、ピアリー、北極点到達(異説あり)
 1911年、アムンセン、南極点到達
 1953年、イギリス隊のヒラリーとテンジン、エベレスト登頂

 とまあ、よくもまあ20世紀中にどこも行き切ったものです。そして更に追い討ちをかけるように、

 1969年、アメリカのアポロ11号、月面に到達

 と、行き着くところまで行ってしまう。

 それから50年。人類全体が熱狂するような冒険的征服は何もなされていない。

 それで冒頭のメスナーの言葉に戻るわけです。人類には、もう行っていないところが残されていない。

 そうなると出てくるのが、冒険に対する反動的な批判です(冒険への批判そのものは昔からあったのだけど)。

 今年(2018年)の1月、標高8125メートルの高峰ナンガパルバットの冬季登頂を目指した女性登山家が遭難しましたが、なんとか救助されたという事件がありました。
 彼女は登頂後、同行したパートナーと共に遭難、極寒の数日間を標高6000メートル以上の高地で過ごし、重い凍傷にかかりながらも救助されました。パートナーは途中で動けなくなってしまったため、置き去りにしています。

 救助され、インタビューを受ける彼女は「(回復したら)また登る」と話していました。

 これに対して日本のネットが燃え上がって(笑)。
「自己責任で行ったんだから救助求めるな」
「置き去りにしたことに罪悪はないのか」
「救助に行った人の迷惑を考えろ」
「それを考えたら、もう一度山に行くなんて言えないはずだ」

 とまあ非難轟々。

 あまりネットの声とやらに本気になるのもバカバカしいのですが、この遭難した登山家は、プロの登山家ですよ?ナンガパルバットへの挑戦も4回目だとか。

 冬季のナンガパルバットは昨年やっと初登頂が成されましたが、それまで幾度も人の挑戦を拒み続けていきた「人喰いの山」。メスナーも弟と二人で挑戦し、敗北、弟を亡くしています(1970年)。

 そんな山に挑戦するのですから当然万全の準備を整えて行っている。
 それでも失敗して、時には命を落とす。

 それが冒険。しかし今はそれが「ムダ」で片付けられてしまう

 恐らくこういう類いの冒険には、昔から批判はあったと思います。エベレストで死んだマロリーも、出発前に新聞記者から「どうしてエベレストに登ろうとするんですか?」と問われている(その時の答えが有名な「そこにそれ(エベレスト)があるからだ」)。

 しかし以前は「無謀」「蛮勇」だから、と批判されていた冒険が、「ムダ」「失敗しても迷惑かけるな」になっていると思う(日本に限って、なのかな)。

 それはプロの挑戦に対して、余りに礼を失した発言ではないか。
 先述した非難だって、準備なしで夏山に登って遭難した中年の素人に対するものと変わらない。

 8000メートル級の山でまだ冬季登頂されていないのはあとK2だけ。それだけでもナンガパルバットへの挑戦は凄いことだと思うのだけど。
 しかしそれはもう、分かる人にしか分からない挑戦になっている。

 今、誰がどう見ても分かる挑戦は、宇宙への挑戦だと思う。
 人類のあくなき挑戦のフィールドが残っているのは、もう宇宙にしかない。

 けどそれも予算削減との戦い。
 映画「アポロ13」でも冒頭で語られていましたが、11号からたった3つ目でもう、国民のアポロ計画への興味は失せてきていた。
 人間ってどれだけ欲が尽きないのか。

アポロ計画に費やされた費用は250億ドル、現在の貨幣価値で1350億ドルとも言われる(それでも18号~20号を止めにして削減している)。

 宇宙で冒険は国単位でないとできないから、国民の支持を経ないと挑戦はできない。だからアポロ以後約50年間、アメリカを含め各国は、許される限りの予算で最大利益を得られる実験・調査計画に集中して取り組んできた。

 改めて、国家単位での冒険を成し遂げたアポロ計画がどれだけ凄かったのか。
 「人を月に送る」という只一点に全力を注ぎ込んだ
 その結果、人類の視野と技術とを、一足飛びに進歩させたわけです(このへんに関しては小野雅裕著『宇宙に命はあるのか 人類が旅した一千億分の八』(2018、SB新書)に詳しい)。

 だからこそ捏造なんて話もあるんだけどね。「できるわけない」と思われていたことをやってのけた。恐らく私を含め現代の人にとっては想像もつかない快挙なんでしょう。

 それを成し遂げたのはアメリカの本気であり、人類の本気だった。ソ連はガガーリンを生かして地球に戻す気はなかったし、アポロのコンピューターは今のスマホの1000分の1以下の処理速度しかない。

 しかしそれを成し遂げたのは60年代の人々が持っていたセンスオブワンダーだし、フォンブラウンという人間の冒険心(狂気?)を受け入れた時代の余裕でもある。

フォン・ブラウン。メフィストフェレスに魂を、自分の夢のために喜んで売り渡した男。

 では改めて現代。その狂気を受け入れられる余裕はあるのか。

 故ジョブズやイーロン・マスクに対して人々が持っている「イノベーション」という期待はひょっとしたら「冒険」への期待に近いのかもしれない。「彼らなら何かをやらかしてくれるかもしれない」。しかし彼らのもたらすのは「人はこんなことを成し遂げられる」という達成ではなく、クルマやスマホなどの身近な技術・生活の革新だった。

 誰かが無酸素で、単独で、未踏ルートを、厳冬期に登頂を成し遂げたとしても、当然ながら人の生活にはクソの役にも立たない。

 話はズレるが、仮想通貨も元々は生活の革新、イノベーションのために生まれた技術だったけど、今はすっかり金儲けの道具にされている。金儲けの役に立たない「冒険」と違い、「イノベーション」はおカネに振り回されることが多々ある。

(と書いてはみたが、更に歴史を紐解いてみれば、大航海時代の冒険は香辛料などを手に入れる金儲けが目当てだったし、対してグラハム・ベルが電話を発明した時は「郵便があるのに?」と批判されたそうだから、儲からない「冒険」とおカネになる「イノベーション」という色分けは一概には言えないかもしれない)

 冒険は冒険家のモノだが、宇宙はこれから多くの者が飛び出していくフィールドになるだろう。国が選ぶ者から科学者、そしてエンジニアへ。門戸は広がり宇宙が日常空間の一部になっていく。

 ただそれも近宇宙、地球のすぐ周りだけであって、宇宙の入口に入る門の前の石段を1000段くらい下った場所に立っただけでしかない。

 また年月が経ち、やっと人類が宇宙に生活の場を移し、更にそれが普通になって、それから月や火星の山を登ったりしてやっともう一度「冒険」が評価されるようになるのだろうか。それともやはり「貴重な酸素をムダにして」みたいな批判を受けるのだろうか

「人類が、増え過ぎた人口を宇宙に移民させるようになってから、既に半世紀が過ぎていた。地球の周りの巨大な人工都市は人類の第二の故郷となり、人々はそこで子を生み、育て、そして死んでいった」『機動戦士ガンダム』1話より。
 「(コロニーを外側から見て)こんなものの上に林があったり、くぼんだ土地の農家や、僕の生まれた家や池もあるってこと?こ、こんな景色の所が故郷だなんて……」『Gのレコンギスタ』16話より。

 ひょっとしたら何の利益もなく、ただ「冒険」するために冒険する時代というのは、もう過ぎ去ってしまっていて、二度と戻らないのかもしれない。何故山に登るのか、と問われて「そこにそれがあるから」とうそぶける時代は永遠に訪れないのかもしれない。

ジョージ・ハーバート・リー・マロリー(1886~1924)。イギリスの第2次エベレスト隊に参加。北東稜付近で行方不明。75年後の1999年に遺体が発見される。

 冒険にロマンチズムと憧憬を持てた、人類にとって貴重な時間は、一瞬で過ぎ去った。
 これからはもう、ただ即物的・現実的・経済的にでしか物事を判断できない時間が無限に人類に続くのかもしれない。

 知りたい・見てみたい・やってみたい・やっているところを見てみたい、という情動を低いモノ・ムダなモノと見る時代。
 それがポスト・モダンの時代なのだろう。

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