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Gレコ雑感「父と娘」

 富野監督の「娘」像は変化している。

 ファーストガンダムの時、フラウには父の像が描かれていない、また、その後の80〜90年代の作品の多くは息子による父の打倒がメインテーマの一つに置かれている。

 対して、女性キャラへの父性の影響を示す表現は少ない。

 富野監督自身は娘がいる。しかし、自分の事を父失格と言っている。娘たちに手をかけることができなかった、と。それは同時に、異性の親としてどう接するのかを懊悩しながら、結果として夫人に委ねていた、ということを自虐として省みた発言のように思える。

 『イデオン』では、カララとドバ・アジバと関係があるが、これは典型的な父親像だ。娘がいつの間にか異星人とデキてしまっていて、オマケに子供まで出来てることに「父親の悔しみ」と怒り、娘の言葉に聞く耳すら持たない。実際そんなことになってたら、そりゃ怒るよなあ、と思うと同時に、怒っている自分もまた、その典型的父娘観の中にいることを思い知らされる。

男児に恵まれなかったといい、ハルルを武人として育てたが、転じてカララには放任主義だった、か

 父と娘、という点とは外れてしまうが、『ダンバイン』でリムルが母ルーザと対立し、挙句、実母によって殺害される、という描写がある。これは異性の親として、同性の親娘の葛藤を、第三者的に見てしまっているようにも思える。

 ドレイクはルーザを振り向かせるために強からんとし、それが故にバインストンウェルを戦乱に巻き込むまでになったが、娘に対しては教科書的に親をやっただけ、に見える。「娘の教育は母親に任せる」。昔のお父さんが言いそうだ。

 ガンダムに話を戻せば、父娘をよりハッキリと描いているのは『F91』のセシリーとカロッゾだ。カロッゾは映画の時期には鉄仮面を身に付け、自らを強化している。いうなれば男性性、マッチョイズムの権化だ。それは、妻に捨てられた男としての(妻側の理由としては間違いなくロナ家の呪縛があるだろうが)意地であり、中年のオッサンが突然自らの体力的低下を発見してジム通いを始めて、その成果を誇るように家族の前でピチピチのTシャツを着たりする姿に似ている

 父娘の関係が決定的に破綻するのは『Vガンダム』のカテジナと、父テングラシーの関係だ。独善的、商売のためなら侵略してきたベスパとも商売する父と、それに愛想をつかせて愛人へと去った母。

別離の後、二人の描写はないが、その後ウーイッグに戻ったカテジナは父と再会したのだろうか

 父親の言い分としては「家族のため」という決まり切った文句が出てくるだろう。しかし子供、しかも娘には父が家の外でどんな仕事をしているのかを窺い知ることはできない。漏れ聞くのは外での父の評判だけだし、母の愚痴だったのではないだろうか。

 日本が自営業主体からサラリーマン主体へと変化したことによって、子供の父親像が変化したとも言われている。つまり、家で何かの仕事をしてお金を稼いでいる父ではなく「会社」という、どこか家の外へと出かけて行って、給与明細という紙だけを持ってくる父、になってしまい、子供の父親の評価に、目に見える「仕事」という基準が見えなくなってしまった、というのだ。結果、子は親を務める会社の名前で評価するようになる。大企業信仰に繋がっている。

 同時に母親による父親評価もまた、仕事ではなく「給料」と「会社」で判断されるようになる。ドレイク・ルフトやカロッゾ・ロナという悲しい父親像の原型がそこに窺える。

 家庭を拒否し「仕事」に逃げ込んだ父親に対し、息子以上に娘は冷酷だ。

 結果、カテジナは安住の地を求め「優しかった」クロノクルの腕の中に飛び込む(これでクロノクルがシャンとしてればよかったんだろうナァ。これもまた、弱い男性性の一つのモデル)。

 富野監督が描く父娘像がある変化をしてくるのは『ブレンパワード』のクインシィだろうと思う。劇中でクインシィは、本名の依衣子(良い子)を自ら捨て去てて名を変え、いうなれば「仮面」を付ける。母とデキてると知りながらその相手を取ろうとするし、自らを鼓舞する。その姿は、マッチョイズムに凝り固まったカロッゾの女性版だ。

カテジナと同じ渡辺久美子さんCVというのも示唆的だなあ。

 女は強い。安住の地を求めるくらいなら、自分で持って来てやる。結果的に、彼女のエゴに引っ張られるように物語は揺り動かされる。

 とはいえ、彼女は究極的に「家族」を求め続けている。彼女にとって「父親」は不要でも「家族」は必要なのだ。

 これは、現代の家族像の変化を端的に窺わせる。つまり、「仕事」をして稼いでくる父が家族に必要なのではなく、共に人生を歩み子育てをしていく「パートナー」としての父のみが必要ということだ。

 ここで「家族像」を論ずるとかなり飛躍してしまうので、再び「父娘」に戻す。

 改めて近作『Gのレコンギスタ』を観る。

 アイーダは父グシオンから既に独り立ちしつつも精神的に今も影響を受けている、という描写がなされてる(19話)。ただ、父グシオンだけでなく、アイーダが影響を受けた人物に、カーヒルという重要な存在がある。

 3話で、死んだカーヒルを述懐してベルリを詰るシーン、アイーダはカーヒルの主張を引用し「神にでもなる」ほどの人物としてカーヒルへの尊敬を語っている(カーヒルの名がカーヒル・セイント、というのも象徴的だ)。

 まぁ、若い女性が自分の彼氏を唯一無二のように崇めるのはよくあることで、平たく言えば、アイーダは彼氏持ちで、しかもぞっこんなわけだ(言い様が古い)。

 そして、おそらく父グシオンはそれを知っている。

 ゲスの勘ぐりになってしまうのだが、グシオンはカーヒルとの関係を認めている。いわば「理解のあるお父さん」をしている(ということはカーヒルのことも相当買っていた、それは兎にも角にも、何れは自分の義理の息子、つまり後継者としても考えていたということにもなる)

(更に推測するに、アイーダにヒロインとしてのポジションを与えなかった監督は、その理由を「カーヒルと寝ているだろうから」としていたが、それは男に娘を取られた父親の心境であり、監督自身はドバ・アジバのような「理解のないお父さん」=典型的父娘観の中にまだ自分の一部があることを自嘲しているのかもしれない)

 再会するなり抱き合う二人であり(8話)、アイーダは父の裸に嫌悪感を持たない(23話)。そして、父の死に際し、涙を拭って自らがその後を負うことを決意する。

 同時にグシオンは、娘として以上に一人の人間としてアイーダを扱う。娘からの情報や提案に真摯に耳を傾け、そして自らの後継者としての期待もしている(「私のそばで艦隊指揮といったものを勉強しなさい」。同23話)。これは、今までの作品での父娘像にはなかった関係だ。

 だが、気になるのは二人は真の親子ではないということ。勿論、二人はそれに葛藤を持つようでもなく、実の父娘以上にその関係は親密だ。それもまた、「血縁」にとらわれない現代の家族像の提案になっているように見える。

 富野監督の娘さんも、今では立派に独立されている。以前、鳥取でのイベントで監督とお会いした折、娘さんもご一緒されていたのを思い出す(「幸緒を呼べ」は、私だけの監督の名言)。そういえば、Gレコは父娘が初めてお仕事をご一緒された作品でもあった(アイキャッチのダンス)。

 父の懊悩など一切気にせず、元気にオトナになった娘の姿を見て、監督の「娘」像が変化し、それが作品に反映されている、と考えるのはあながち間違ってはいないと思うのだが。

 ところで、Gレコの完結からもう一年らしい。未だにこうやって考えてしまうところ、やはり傑作なのだろうな。

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