シリーズ超名言「人生に無駄なことはない」という言葉のドグマ。

世の中にあふれる様々な名言は、その本質をしっかりと見極めることで、僕たちの生活をより良い状態へと導く知恵として活かすことができる。一方で、名言はその言葉を表面的に捉え、知識として蓄えるだけでは、僕たちに内在する無限の生成発展可能性を止めてしまうドグマにもなる。そして、そのドグマのもつ負の側面は、テクノロジーが発達した今や、自らのみならず、世界全体がより良い状態へと向かうエネルギーを弱めてしまっているのではないかという問題意識を僕は持っている。


人生に無駄なことは、なにひとつとしてない。

 ベストセラーの本や曲、ドラマや映画の決め台詞としても出てきそうなこの言葉。思い通りに物事がいかなかったとき、遠回りをしたような気持ちになったとき、「人生に無駄なことはない」と前向きになった経験がある人は多いはずだ。ときには、悩んでる相手を癒すために、この言葉をかけてあげたことがあるかもしれない。
 もちろん僕も、そのひとりだ。とくに失敗や挫折が人一倍多い僕は、これまでの人生で、何度この言葉を胸に、前を向いてこれただろうか。仕事柄、人の相談にのったり助言をすることも多い中で、どれだけの人に「人生に無駄なことなんて、なにひとつとしてないと思うよ。」という言葉をかけてきたのかは数えきれない。あなたはどう?

自分のやってきたことは無駄じゃないと思いたい。

 そもそも僕たちは、なぜこの言葉を好むのか。それは、とてもシンプルなことだ。言葉の通り、無駄だと思いたくないからだ。自分のやってきたことが無駄なことだなんて、誰も思いたくないものだろう。あの努力も、苦労も、我慢も、すべてこれからの人生のどこかにつながっていき、必ず実を結ぶものだ。点はいつか繋がり、線になるはずだ。多くの偉大な先人たちも、似たようなことを言っているし「人生に無駄なことなんてないはずだ。」と自らを鼓舞し、また前向きに歩んでいきたいものだ。この認識の誤りが、また同じ過ちを繰り返す原因になっているとも気づかずに。

禅的に志向すると、あまりにも無駄が多すぎる。

 自己と世界の見え方に大きな変容を与えてくれた1週間の参禅体験を終えて、約1ヶ月経った今日まで、まだほんのわずかな時間ではあるが、僕はこれまでと全く違う世界を生きている。決して物理的に何かが変わったわけではない。生活習慣は意識的に変えているが、同じような日々の中で、同じような人々と、同じような事をしている。それでも、全く違う見え方に変わってしまっているということだ。
 社会人をホームレスから出発したこれまでの人生から今を見ても、常に変わり続けてきたことに対する自負は多少あったが、参禅後は、これまでの変化を遥かに超える変化を強く実感している。本来の自己に気づいたと言えば聞こえはいいのかもしれないが、もはや「僕は生まれ変わった」と恥ずかしげもなく言ってしまった方が話が早いようにも思う。そして、僕は気づいたのだ。自分がこれまで生きてきた世界には、あまりにも無駄が多すぎるという事実を。
 あえて狂信的に表現するが、座禅によって体認実学させてもらった今の境地から見直せば、僕の生活、仕事、経営、人生には、あまりにも無駄が多すぎたのだ。もはや過去の自分を完全に否定しつつ、その否定を完全に肯定しているし、一方で過去の自分を完全に肯定しつつも、その肯定を完全に否定することもできる。もはや、否定も肯定もなく、只々、今、思っている。僕はどれだけ無駄なことをしてきたのかと。

僕たちの心は常に暴れている。

 禅の世界では「いま・ここ・わたし」以外に何も存在しない。今とは何か、こことはどこか、わたしとは何かを説明することは、ここでは控えるが、只々、無心で座ることで、自らの本質を悟ることが座禅をする意義だ。
知識として伝えると極めてシンプルなことだが、実際はそんな簡単にはいかない。「無心で座りなさい」と言われても、無心で座り続けることはできないのだ。「無心、無心、無心」とどれだけ自分に言い聞かせても、座ること以外に、意識があっちゃこっちゃ暴れて止まらない。「今だけに集中しなさい」と言われても、今だけに集中することができないのだ。「今、今、今、今、今、今、今、今、今」と、どれだけ今に集中しようとしても、ふと気づいたときには過去や未来へと意識が暴れている。
 このことは禅を経験したことがある人には痛いほどわかることだろう。経験したことがない人も、今から1時間くらい座ってみれば認識はできる。無心で座るということ、只々今だけに一心になるということが、これほどまでに難しいことなのかと。同時に、普段の自分が、いかに心が暴れたままの状態で、あらゆる日常を生きているのかに気づくことができるはずだ。心が暴れた状態で、日常を生きていれば、そこには無駄や隙が多すぎることはいうまでもない。

無心で座るための唯一の手段とは。

 座り始めて2日くらいは、心が暴れた状態の中で、ひたすらに座禅を組むのが修行だ。朝5時から夜22時までのあいだ、食べる以外は座り続ける。
 これまでの人生において、それなりの苦労を経験してきた僕にとっても、あれほどの苦労を経験したことは、ある意味で人生初のことだった。暴れる心と向き合い続ける地獄の日々。ごまかすことも、逃げることも、自分に嘘をつくこともできない。座ることしかできない、座禅という修行にひたすらに向き合う。
 すると、次第に気づき始めた。無心で座り、今だけに集中するための唯一の手段について。それは、呼吸に集中するしかないということだった。老師の法話や、先輩の助言のまま、只々一心に、一呼吸を極めることが座禅の始まりだったのだ。
 そして僕は2日目の夜、これまでの人生において至ったことのない境地に辿りつくことができ、3日目には、とてつもなく重大な自らの強いエゴイズムを自覚することができたのだ。
 自らの本質を体認するとともに、その本質に包み被さるエゴイズムを実学できたとき、これまで見えていた自己と世界の認識が一瞬にして超越したのだ。その超越の手段が、まさか一呼吸にあるなんて、実際に経験するまでは中々信じ難いことだ。が、それが事実だ。そして、座禅においては、呼吸以外の全てが無駄なことだということだ。

座禅における呼吸は、日常において何なのか。

 座禅における呼吸を少しだけ紐解くと、「呼吸は悟るための手段である」という極めてシンプルな事実だ。この本質を、日常の生活や日々の生産における万事と合一することが、禅的な志向を生きるということだろう。
 自分の生活の中身を詳細まで伝えることはしないが、下山から1ヶ月経った今、明らかな生活の革新を、自身と家族がともに実感し、これまでの人生で味わったことのない、とても充実した生活を楽しんでいる。そして、そのような生活の中で、日々の経営や生産活動に励んでいくと、極めて無駄の多い、いや無駄だらけと言っても過言ではない、過去と今の自己に気づくことができる。その無駄を一つ一つ丁寧に整える過程において、イノベーションが起き続けているというのが今の現状ということだ。
 ちなみに禅志向によるイノベーションの代表的な事例といえば、やはりスティーブ・ジョブスだろう。彼の製品開発は、とことん禅志向であり、その結果生まれたのがiPhoneなどのApple製品だ。スティーブ・ジョブスの禅(ZEN)志向の起因となった鈴木大拙については、また後日、改めて書くことにするが、いずれにしても、禅志向的には、目的のために、今、最善だと思う手段だけをミニマルに選択し、それ以外は全て削ぎ落とし、脇目も振らず、一心不乱に手段を研ぎ澄ますことに徹するということなのである。その結果イノベーションは起きる。頑張って起こすのではなく、必然的に起きるのだ。今、最善だと思う手段は明日になって最善かどうかはわからない。過去に決めた手段が、今、最善かどうかはわからない。つまり、今、最善だと決めたこと以外は、それ以外の全てが目的達成においては無駄だということだ。

人生に無駄なことがないのかは、僕たちには分からない。

 人生に無駄なことはないということを、認識し信じている人が多いことは、とても良いことだと思う。先人の知恵として、また、あらゆる人の希望として、大切な言葉であることは間違いないはずだ。しかし、その言葉の本当の意味や答えは、現時点の僕たちには決して分からないことなのだ。その分からないことを、わざわざ今の自分や他者に当てはめること自体がナンセンスなことなのかもしれない。希望をもつこと、励ますことは大事だが、それと同時に、素直に反省し自らを改善することが何よりも大事だろう。だからこそ言えるはずだ。「人生に無駄なことは、なにひとつとしてない」ということを。無駄に気づき、改善を志向し、ともに終わりなき旅の中での完成に向けて歩み続けている僕たちだからこそ。


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