見出し画像

『無法松の一生』(阪東妻三郎版)

 岩下俊作の小説『富島松五郎伝』を原作に、俳優のほかにもマルチに活躍した伊丹十三の父で、映画監督の伊丹万作が脚本化し、稲垣浩監督が映画化した『無法松の一生』。サイレント映画の大スターだったが、映画がトーキーに移行してからは低迷が続いていた阪東妻三郎が起死回生を懸けて挑んだ作品で、その演技が高く評価された。だが、戦時中には内務省、戦後にはGHQの検閲で大幅なカットを余儀なくされ、現在観られるのは80分バージョンた。稲垣監督は1958年に改めて三船敏郎主演でリメーク版(完全版)を製作し、第19回ベネチア国際映画祭で金獅子賞を獲得し、見事にリベンジを果たした(撮影は山田一夫が担当)。その後、1963年に伊藤大輔脚本、村山新治監督の三國連太郎主演版、1965年に三隅研次監督、勝新太郎主演版が作られる。筆者が阪東妻三郎版を初めて観たのは、かなり前の祝日にNHK総合の午前中に放送された(と記憶している)ものをVHSのビデオテープに録画してしばらくたったとき。モノクロで戦前の映画ながらもそのクオリティーの高さに驚いた。そして、隔週時の雑誌『ぴあ』で編集アシスタントとしてアルバイトをしていたとき、オフシアターページの自主上映の欄を担当していて、その中で『無法松~』の16ミリフィルム上映会が都度行われていることを知っていたが、そのときは行くことができず、スクリーンで観る機会はほとんどなかった。そして、2023年1月に角川シネマ有楽町で行われた『大映4K映画祭』、3月の『午前十時の映画祭』で上映されていたので、『午前十時~』の方でようやく初めてスクリーンで観る機会に恵まれた。同時上映されたのは、19分の短編ドキュメント『ウィール・オブ・フェイト~映画『無法松の一生』をめぐる数奇な運命~』で、『角川映画祭』では本編後(だったとTwitterで知った)に、『午前十時~』では本編前に上映された。このドキュメンタリー、以前、NHKのBSプレミアムで『無法松~』の放送時、本編の後に放送されたのを観ていたので内容は覚えていた。稲垣監督のインタビューやカット部分の解説など、わかりやすく解説された良質の作品だった。
 舞台は九州の小倉。阪東演じる喧嘩っ早いが根は一本気な松五郎は、仲間から“無法松”と呼ばれる名物車夫だった。ある日、ケガをした陸軍大尉・吉岡の息子で、沢村アキオ(後の長門裕之)演じる敏雄を助けた松五郎は、吉岡家に出入りするようになる。その後、大尉が病気で急逝してから、松五郎は、園井恵子演じる吉岡家の未亡人・よし子と敏雄に対して献身的に尽くすというのが物語の流れだ。
 阪東はそれまでのサイレント映画のヒーローとはまったく違う、実に人間味にあふれた松五郎役を実に巧みに演じる。松五郎が献身的に尽くす夫人・よし子役の園井は凛とした佇まいの中に儚さを漂わせ、後に原爆が原因で亡くなってしまうのが惜しいほどの美しさを見せる。息子・敏雄の幼年時を演じるのは子役時代の長門裕之で、俳優として活躍する長門の面影そのままに、名子役ぶりを見せる。人力車の車輪をメインに場面を重ねるオーバーラップを使うなど、宮川一夫の撮影が本当に見事で、今、観てもその素晴らしさは色褪せない。検閲で大幅にカットされても、松五郎とよし子の情感は十分に伝わるし、これはこれで十分に傑作だといっても過言ではない。それほど、この映画は人々の心を動かす力を秘めている。
 もし、検閲され、カットされたフィルムがどこかに残っていて、阪妻版の完全バージョンが成立していたら、日本映画史上に残る大傑作が誕生していたに違いない。後の三船敏郎版で完全な形となったが、阪妻の完全版が観られないのは残念でならない。だが、不完全であるからこそ、この映画は後世に語り継がれる作品になったのだと思う。当時の稲垣監督の思いのつまった阪妻版は、筆者にとって大好きな1本である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?