見出し画像

保育士が読んだ 『We are lonely, but not alone.』

「現代の孤独と持続可能な経済圏としてのコミュニティ」。そうサブタイトルがつくこの本は、いわゆる “編集者” として生きてきた佐渡島庸平さんが、大きな時代の変化を感じて新しいコミュニティのかたちにチャレンジしていく、そこでの仮説をまとめられたものです。

僕は保育に関わっている1人(教材づくり10年、いまは期間限定で小規模保育園の非常勤保育士や、メディア運営の仕事などをしています)として、noteに「保育」につながる本たちという読書録をつけています。

今回この本を読んで、ふつうの方はあまり連想しないだろう “コミュニティ” と “保育” について2つ思うことがあり、記事に残すことにしました。(上のキーワードに関心がある方、ぜひ、実際に読んでみてほしいです。)


連想① 保育園が生み出すコミュニティ

1つめの連想は、僕自身が大きな可能性を感じている保育園が生み出すコミュニティについて。保育園でつくられる “中の関係性” はもちろんですが、加えて、それぞれの保育園がもっと “地域でのコミュニティ” の核になれるのでは?(今は待機児童とか保育士不足で、そんなこと言える状況では全くないけど…)という課題意識を、今もっています。

これは保育に関わってきたというよりも、子どもを育て始めた1人の親として感じているものです。何を感じているかというと、まさにサブタイトルにある「現代の孤独」


僕は今、妻と2人で双子の息子と娘を育てています。出産してしばらくは大阪で生活していました。同僚や友人たちたくさんの人と繋がっているようで、親同士のコミュニティにはどこにも入れておらず、いざというとき本当に頼れる相手が、誰も近くに住んでいない状況は、思えばかなりツラいものがありました。

滋賀にUターンして1年弱。奥さんの実家や、子どもが通っている保育園(まだ親同士のコミュニティには入れていないけど、保育士さんには相談できる)、あと僕が所属しているコワーキングスペースのコミュニティなど、いくつか頼れる場所ができました。心理的にも肉体的にもだいぶ楽になっていますが、保育園が生み出すコミュニティについては、「まちの保育園」などの実践例などから、今でも強く可能性を感じています。

大きなライフイベントの1つである出産〜育児のはじめ、親は誰もが不安を覚えます。まして生まれてくる子どもなんて、すべてが初めての世界。その入り口に立つ保育園は、大げさじゃなく、家族に寄り添えるコミュニティをつくりうると思っています。(もちろんいま出来ることをされてる園はたくさんありますが、保育全体の環境がもっと良くならないと厳しい部分もたくさんあるので、あえて書きました。)


ややバズワード感もある “コミュニティ” ですが、それでも新しい時代に合わせたかたちをつくっていくことは、僕にとっても大きな関心であり、向き合っていきたい課題。特にこの本の第1章・2章で書かれているコミュニティの現状分析は、僕たち子育て世代がどっぷり浸かっている状況(子育てネタは炎上も多いですし)を、わかりやすく整理しているなと感じました。

* 本書の内容はあとで一部、備忘録として記します。


連想② 「安全・安心」がベースという考え

もう1つは、本書の後半で触れられた、コミュニティづくりの基礎としての「安全・安心」の設計という仮説に、いち保育者としてとても共感することがあったからです。

保育とは、子どもたちに向けて『擁護』と『教育』を一体になって行うこと、とされています。子どもたちは、安全に過ごせる環境や保育者との信頼関係を土台とし、発達に応じたいろんな関わり合いの中で、必要とされる能力を獲得していきます。(現場の保育士としても勉強中の僕は今、保育士としてのここのスキルの難しさに直面しています。)

このベースとなる『擁護』は「子どもの生命の保持」および「情緒の安定」を図るために保育士等が行う援助や関わりとされていますが、これはまさにこの本で触れられている「安全」および「安心」そのものです。

* 少し専門的になります。全国社会福祉協議会・全国保育士会から次ような資料も出ていますので、ご参照ください。http://www.z-hoikushikai.com/about/siryobox/book/hoikutoha.pdf


非認知能力という言葉もだいぶ広がり、乳幼児期の教育が昨今大きく見直されていますが、その理由を学んでいくと、人の、人としての原点が子どもの頃にある、ということを最近よく考えさせられます。

(これは以前に『モチベーション革命』と保育でも触れました。)

コミュニティづくりとしての原点に「安全・安心」があるというのは、保育とすごく重なる部分があります。人はそれがベースにあって初めて、熱量をもって何かにチャレンジすることができるのかもしれません。


実際にこの「安全・安心」についていくつか、なるほど…!と思ったところを原文(第3章)から引用します。もともと著者は、熱狂するコミュニティをつくるために、まったく違うことを考えていました。

正直、安全と安心の確保などは、僕からすると共感しにくい考え方だった。本気の人間が、死ぬ気で熱狂している時だけ、成功できる。安全と安心の確保なんて、二の次どころか、最後の最後にすること。いや、そんなことを考えだしたら成功しないのではないか、そのことを忘れるくらい、影響しないとだめだと考えていた。

ところが自身の「コルクラボ」というコミュニティ内で、熱狂を生み出すことを最優先した結果、はじめは熱狂していた人の中から脱落する人が出始めたことで、次第にこの考え方を変えていきます。

熱狂は、インターネット以前の、不自由な、カクカクした世界の中でコミニュケーションを取るのに必要な要素ではないか? インターネットによって生み出されるなめらかな世界では、熱狂は最優先事項ではないのではないか?
それぞれの人の状況や立場によって、何を安全・安心とするかは違う。でも、すべての人が、その人なりの安全・安心を確保してから、挑戦しているのではないか? そんなふうに考えるようになった。

もちろんコミュニティには熱狂が必要ですが、その熱狂には実は2種類、上がり下がりする “テンション” と上がり下がりのない “モチベーション” があり、コミュニティの維持には後者の「静かな熱狂」(モチベーション)が必要ではないか、という指摘がすごく鋭い。


そして「安全・安心」があり「静かな熱狂」がある状態で、もう1つコミュニティに必要だというのが「信頼関係」だと言います。

情報が爆発していると繰り返し書いた。その状態で新しいコミュニティに参加すると、より情報が増えて、もっと混乱するだけだ。
しかし、そのコミュニティの中で信頼関係を築いた人が増えると、その人の発する情報を信頼することができる。信頼できる情報の発信者がいる状態をつくり、自分で情報の真偽を毎回確かめないこと、それが身の回りに溢れる情報を減らすためにできることだ。信頼関係のあるコミュニティに所属すると、どの情報をスルーして、どの情報に耳を傾ければいいのかがわかるようになる。

「信頼関係」は保育にとっても欠かせないもの。保育者との強い信頼感(保育で言う基本的信頼感:Basic Trust)が、子どもの共感性などを育くんでいきます。そういう意味でコミュニティづくりの基礎と、同じではと感じます。


3章には他にも、「『できない』から『できる』への段階」「閉じたコミュニティの中心が、外部につながっている状態をつくる」「自分の物語を何度も語る」など、刺激的な仮説がたくさんあります。今年、何度も読み返す1冊になりそうです。


備忘録① 第1章

第3章の「安全・安心とは何か?」を中心に触れてきました(ここが本書のコアだと感じたので)。最後に、前提となる今のコミュニティを取り巻く背景についても、前半から少し引用と感想を添えておきます。

第1章の「現代の孤独とコミュニティ」は、なぜ今みんなが孤独を感じているのかの考察。


まずこの数十年で、社会が大きな変化を迎えました。それはモノが無かった時代からモノがある時代への移り変わり。

これにより、何をいいものとするかの共通概念が根本的に変化します。「何を手に入れているか」よりも「何をやっている人か」「なぜやっているのか」が重視されるようになった、という著者の指摘は決して大げさではなく、実際に若い世代であればあるほど当てはまるように感じます。

一方で、会社や家族が担っていた従来のコミュニティも、終身雇用が崩れたり核家族化が進むことで、その姿を大きく変えています。


そんな中でインターネットが登場し、これまでマイノリティだった人たちが、発信ができるようになりました。大きなマス媒体の力が弱まり、情報量は圧倒的に増加。さらにSNSが普及した今、ネットを通じてすべてそれらがオープンに、フラットになってきました。

佐渡島さんは、この情報量の爆発に追いつけない、これまでマジョリティだった人たちが孤独を感じ始めた、というのです。

自分たちが何を欲しているか、どう生きたいのかを把握せず、社会規範を不自由だと思わず、従って生きていたマジョリティーは、今やコミュニティーを失い、情報処理をうまくできず、孤独を感じはじめている。

10年間1つの会社、しかも出版社に所属していた僕も完全にこの状態でした。縮小へ向けて市場が変わる中で何をすればいいか分からず、自分で自分の人生を考えてこなかったツケが溜まっていくことを薄々感じながら、苛立ちだけを溜めていました。

なので子育て/退職/Uターンというライフイベントは、そんな自分を変えるきっかけをくれた、家族からの最高のプレゼントだったと思います。(もちろんまだ道を歩み始めたばかりで lonely も alone も思いっきり感じてますが、手応えがないわけでもない、今はそんな状態です。)


また一方でSNS、特にTwitterをこの1年半くらいで使うようになって、次のような指摘もすごく同意できるようになりました。

ネットは全ての関係をフラット化する。今までは、違うコミュニティに属する人の詳細を知ることがなかった。社会には、様々な意見が存在するのではなく、全く逆な意見が共存している。現実では自分の周りには、似た意見が揃っているから、逆の意見を意識することはほとんどない。意識するときは敵として、認識してしまっている。
今のSNSは、あまりにも、ポリティカルコレクトネスが求められすぎる。すべての人が、常に聖人君子でいられるわけではない。偏見や差別から自由になろうとしている人であっても、そのような発言をしてしまう事はありえる。

特に同質性の高い組織にずっといると、本当にここの感覚が鈍ります。例えば僕は今、双子の発熱で保育園からしょっちゅう「お迎えの依頼」を受けますが、前職のときそんな連絡を受けている同僚が周りに1人もいなかった事実に、最近になって気づきました。

今は僕は自分が当事者として語ることができますが、そうでなければ完全に「違うコミュニティに属する人」の話でしかありません。SNSで不用意なことを(そのつもりがなくても)言ってしまっていた可能性は、十分にあります。


ネットというメディアは弱者の味方になりましたが、背景の全く違う人にも届くというリスクもあります。自由を享受しながら安心を得るためには、身体性の伴った新しいネットとの付き合い方が必要。

その1つの解が、クローズドなコミュニティだと佐渡島さんは提案しています。


備忘録② 第2章

簡単に…と言いながら長くなってしまいました。第2章は「持続可能な経済圏としてのコミュニティ」です。とても説明しきれないので、気になった部分だけメモ。

ネットは、弱い者に力を与える。個別化を進めて、不自由な仕組みをなめらかにする。そう考えると、やることが明確になってくる。
ネット以前の社会においては、本好きというのが、ビジネスとしてマネージメントできるちょうどいいコミュニティの大きさだった。しかし、それはすごく不自由なコミュニティで、もっと小さいコミュニティのほうが、本当は楽しめる。
僕は、編集するときに判で押したかのように、「わかりやすく」と言うことを言う。言いながら、実は少し嫌な気持ちになる。僕個人の趣味だとわかりにくくてもいいと思うからだ。だが今の時代、書店で売ろうと思うとわかりやすさが売れ行きに関係してしまう。
しかし、自分のファンコミュニティを持っていたら、わかりにくいことを分かりにくいままファンに提供できる。そうなると、作品の質は変わってくるし、もっと個性的な作品が生まれると考えているのだ。

余白をつくりだす、そしてコミュニティでそこを共有する。それは非論理的で役に立たないモノや情報かもしれないけど、それこそが心を満たしてくれる場合があり、そういったもので成り立つ経済圏をつくろうとしている、ということかなと解釈しました。(「小さな経済圏」「なめらかな経済圏」という言葉、最近いろんな本で目にしますね。)

個人的に思うのは、世の中がどんどん本質的になっていこうとしている(そもそもの姿に戻ろうとしている)状態にあって、子どもの発達の姿・そこへの保育としての関わり方は、これからのコミュニティづくりとすごく近しい関係があるのではと感じています。

この部分、もう少し言語化できたらまたnoteに書きます。


最後ざっと流してしまいましたが、保育×コミュニティに注目している人も増えてきている気がするので、この本みたいな全く違う切り口からも学びながら、新しい可能性を一緒に探したいなぁと思っています。

もし保育者の方で(もちろんそれ以外でも)語りたいという方、気軽にご連絡ください!^ ^

(twitter @masashis06 )



『We are lonely, but not alone. -現代の孤独と接続可能な経済圏としてのコミュニティ』(佐渡島 庸平)



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?