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過度な啓蒙主義を脱却しながら多様な人と智慧をかたちづくる

超相対性理論の「人文知の社会実装」を聴いていて、啓蒙主義はややもすると他人の誤りを責めたり、物事を知らない人をバカにしたりする傾向があるという話があった。啓蒙主義とは合理主義だが、確かに現代において合理主義に傾倒している人は多い。人間はそこまで合理的ではないのに。

僕はこれで思い出されるのは、「専門家がやるべきだ、素人は引っ込んでろ」という考えに代表される権威主義、勉強するために仕事するのではなく、身に付けてから来いという排他的な考え方だ。僕も、どちらも経験したことがある。

権威主義は権威を持っている人たちの自己満足にしかならない。彼らに言わせれば素人が入ってくることでスピードが遅くなると思っているだろう。が、彼ら専門家がずっとその組織にいる保証はあるのか?そもそも自分と同じような専門家をその組織に育成するべきだろうという問いが浮かぶ。もしかすると彼ら専門家は、自分と同じような専門家が現れると自分の立ち位置が脅かされることになり、また議論の相手をしなくてはならないことが面倒くさく、インセンティブがないのかもしれない。が、組織にとってはできる人が複数人いたほうが良いし、多様な議論があるほうが組織に対して良い効果があることは自明だ。どんどん専門家に対する対抗馬を再生産できるような仕組みにした方が良い。

次に、勉強するために働くことをネガティブに見る人たちをよく見かける。もともとアメリカ合衆国でその考え方が強いので、かぶれている人もいるのかもしれない。何を隠そう、僕もその一人だった。が、この考えも完全に誤りだ。なぜかというと後進が育たない。超相対性理論の「人文知の社会実装」で荒木さんが取り上げている、宮台真司さんが言及した学習欲の発動の根本に感染がある、そしてその感染は憧れとも言えるという話があった。まだできなくてもやる気があれば迎え入れてどんどん育ててあげるべきなのだ。が、過度な啓蒙主義になっている人が多いので知らないことに対してダメ出しして、その人たちを潰してしまう。まさに潜在的な専門家のチャンスを潰してしまっている。これだと組織は育たない。

そしてここまで「組織」と書いたが、社会にも置き換えられる。他の国の状況はわからないが、日本に停滞感があるのは権威が権威でいることと、他の人が権威にならないようにすることを無意識的に持続しているからだと思う。

これから自分が専門家に触れるときに、自分が専門家ではないから一緒に活動できなかったり、勉強のために一緒に活動できなかったりしたら、その専門家は組織あるいは社会の成長が目に見えていないことを指摘しよう。そこで自分の欲求を取り下げるのは自分のみならず社会にとってもマイナス。どんどん主張しよう。

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