190119_読書メモ_サマリー

【#読書メモ】死、それは成長の最終段階

遠ざけてしまいがちな“死”を、どう捉えればいいのかポジティブに考えさせてくれる1冊。


【特に響いた言葉まとめ】


【目次】
1 序説
2 どうして死ぬことはこんなにも難しいのか
3 他の窓から見た死
4 死ぬことは易しいが、生きることは難しい
5 死と成長―ありえない組み合わせか?
6 死、それは成長の最終段階
7 結び


【著者プロフィール】
エリザベス・キューブラー・ロス
精神家医。スイス生まれ。アメリカ精神医学界で活躍する。代表作品に「死ぬ瞬間」(’71年)がある。死に面した患者との対話の中から真摯に学ぶ態度を通じて医療側のあるべき姿を描き出す。そして、死を予想される患者に病名を告げるか否か。患者の不安にどう対処すべきか。家族への対応の仕方など、現代医療のもつ問題点の解決に示唆を与えている。



【特に響いた言葉①】

死とは、目には見えないが、親切な人生の旅路の道連れであり、本当にしたいことは先送りしてはいけないのだということを優しく気づかせてくれる友なのだ。

この言葉は身近な人の死があるたびに共感する言葉。永遠に生きられるかのように過ごしてしまいがち。お墓参りは定期的に気づく場なのかな。



【特に響いた言葉②】

古いやり方を捨て、古いパターンを破ることは、死ぬことに似ている。少なくともそれは古い生の死だ。古い生き方を捨てて新しい生き方を求めることだ。その新しい生き方にどのような意義があり、どのような人間関係が用意されているかはわからない。しかし、人生に変化がなければとても生きているとはいえず、成長しているともいえない。死ぬことは生きることの前提条件である。成長も生きることの前提条件である。この過程を阻むということは、抑圧されたまま生きるとうことだ。

定期的に見返して成長しようって思わせてくれる言葉。



【特に響いた言葉③】

着実に歩んでいくためには、急いではならない。

成長することは前提条件だが、その成長を焦らせないように励ましてくれる言葉。






【その他に響いた言葉】

充実して生きるということは、躍起になってできるだけ多くの経験を重ねることではない。むしろ毎日を、この日1日しかないという気持ちで生きることであり、人生に失望したり、辛いことがあったときに、それに対処できるだけの心の安らぎと強さを見つけることだ。
人生において遭遇するそれぞれの状況は、人に与えられた試練であり、解決すべき問題を提起しているのだ。そう考えると、人生の意味は何かという問いかけは、じつは逆なのではないだろうか。結局のところ、人生の意味など問うべきではなく、自分自身がそれを問われているのだということに気づくべきた。つまり一人ひとりが、人生からその意味を問われているのであり、自分自身の人生のすべてを引き受ける、つまり責任ある生き方をすることによってのみ、それに答えることができるのだ。
人が目的のない虚しい人生を送ってしまう原因のひとつは、死の否認である。なぜなら、永遠の命をもっているかのように生きていると、今しなければならないとわかっていることを先延ばしにしがちだからだ。明日の準備として今日を生き、昨日の記念として今日を生きていると、一日一日は無為に過ぎるだけだ。逆に、朝目覚めた時に今日が人生最後の日になるかもしれないと十分理解していれば、人は成長するために、もっと本当の自分になるために、そして他の人間と接するために、その大切な一日の時間を使うものだ。
限らえた生命しかないことをつねに心に留めているなら、本当の意味で生きる、つまり生を楽しみ、感謝するという生き方しかできないはずだ。
生活のなかで自分が満足できて安心できるもの、それがあるから生きているのだ。向上心、達成すべき目標、それに将来への望みが、人生の価値のあるものにしている。
最終的な死、つまりこの世での死を直視し理解できれば、人生で直面する変化の一つに向き合い、対処して、それを人生の糧にできるようになる。みずから進んで未知のものに敢然と立ち向かい、勇気をもって見知らぬ領域に踏み込んでいくことによって、自分というものを探し始めることができる。自分を見つけることこそが成長の究極のゴールなのである。他の人々と接触し彼らとの対話に身を投じることによって、一人であることを超越して、自分自身と、そして他人と一体になる。このような生き方を貫けば、充実した人生だったと納得しながら、安らぎと喜びのなかで最後を迎えることができるのだ。
人間は他人との関わりを通して自分自身をとらえる動物であり、基本的には仲間意識をもった社会的な存在である。
自分で自分の存在を「受け入れる」、つまり、ひとりの人間として存在意義があると感じるかどうかは、自分というたったひとつの自己よりも大きな誰か、あるいは何かに受け入れられているということを知るかどうかにかかっている。
心の葛藤、積年の罪悪感、退屈さと倦怠感、深い孤独感は、自分自身の気づきの拒絶、つまり建設的に「自分というもの」を経験しようとしないことが、そもそもの原因なのである。
死を恐れる必要はない。私たちが気を揉むべきなのは肉体の終わりではない。命あるかぎり生きることにこそ、関心を寄せるべきなのだ。他人の作った仮面に隠れ、自分のあずかり知らぬところで決められた生き方に従っていきることは、精神の死を意味する。
個人の存在の有限性を受け入れれば、外部から押し付けられた役割や期待を拒絶する強さと勇気がもて、さらに、どれだけ生きるかに関わらず、出来る限り成長するのに一日一日を捧げられるようになる。
すべてを得るためにはすべてを捨てなければならない。何を捨てなければならないのか。それは本当の自分でないものすべてである。選ばずして選んだもの、価値を測らずして価値を与えたもの、自分自身で判断せず誰かから押し付けられて受け入れたものすべて、そして、自分や他人を信頼したり愛したりできなくしている自己不信である。
成長をしなければならない。一歩一歩、不安を感じない程度の歩調で、しかし積極的に歩んで、自分というものに到達できるように成長しなければならない。
死とはこの世での成長の最終段階である。死によってすべてが滅びるのではない。死ぬのは肉体だけである。自己、あるいは魂(どう呼んでもかまわない)は永遠である。気持ちの安らぐようなかたちで、人それぞれ自由に解釈すればいいのである。
自分がなぜここにいるのか、死んだらどうなるのかを十分理解しているようといまいと、重要なのは、成長こそ人生の目的だと認識することである。
成長を利己的に利用してはならない。



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