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平田オリザ氏講義を聞いて


WSDへの関心

 平田オリザさんが講師をされることが、WSDプログラムに関心を持った一つの理由だった。演劇やその他の身体表現に関しては、芸術学部生だったころから、周囲にそういった活動に携わっている人が多く、私自身も宣伝に携わったり実際に裏方として手伝ったり、関係のある劇団やダンサーの講演を地方まで見にいったり(そういえば、妻もかつて舞踏を習っていた時期がある)と、常に関心事の一つだった。
 演劇への関心の元を辿ると、子供の頃に見たドリフターズの『8時だョ!全員集合』の様な気もするし、青島幸男その他の『意地悪ばあさん』の様な気もする。とにかく、演者たちがその場で起こることに、アドリブやライブでやりとりをすると面白いし、演じている人たちもイキイキとして、なんだか楽しそうにしているということが、テレビ自体の面白さと、そういう演じることの面白さを感じた原体験として、ほぼ同時に地方の片田舎にいた自分が感じたことで、その後の何か自分の人格形成に影響があったのだろうと、今となっては思う。
 「ドリフ」も「意地悪ばあさん」もとても偉大で、そもそも演者の性別・属性は、本来とはかけ離れているし、おそらくこんなばあさんはいないだろうとか、こんなじいさんいないだろうと思って見てるのだが、でもこういうことって、実際あるかもしれない。こういう状況になれば、皆こういうふうに振る舞うかもしれないと。イマジネーションが起きてとても面白かったことを憶えている。

再接触 

 大人になる途中、そいうことはしばらく忘れていたのだけど、演じることの面白さに再びやられたのが、浪人期間中に衛星放送で見た三谷幸喜の『ショウ・マスト・ゴー・オン 幕を降ろすな 』である。設定自体が、舞台というメタな作品だが、いつもの三谷作品の様に、多様な人物が起こす小さなトラブルが徐々に大きくなり、とんでもないことが起こっていく群像劇。
 いわゆるメディアの発達により、少しクール(笑)になり、実際に舞台上で、演じるって少し古いかもなんて、大人になったふりをしていた自分は、もう一度ガツンと、演じる(プレイする)ことの面白さにやられた。そして大学に入り自然に演劇に関係していく。実生活が制約に満ちているなら、プレイは必要だ。そもそも実生活だって、皆さまざまな役割と状況が与えられ、それを上手かろうが下手かろうが演じる終劇しない巨大な群像劇なんだろうとは、その当時思っていなかっただろうが、演劇という文化を関心を持って楽しんだ青春時代だった。 

 この様な演じることの影響や、効果の様なものを意識したのは、わりと最近になってからだが、確かに社会と演劇は入れ子になっていて、うまく演じるには、社会を理解しないといけない。もちろん、社会の構成員である、人物やその人物を生んだ背景も社会の一部として理解しないといけない。
 平田氏の『わかりあえないことかから』の「旅行ですか?」の一言には、これが詰まっていた。もちろん『三四郎』の時代と、現代の新幹線とでは、移動最中の状況は違うが、その場の時間が短く、皆忙しそうにして疲れているならコミニケーションは取らずに個人的に座っていれば良いというのは、乱暴な結論だ。
 平田氏の言う「背景文化の多様性、コミュニケーションの多様性を理解させること」これ自体がまさに教えるべきことだと言うことである。この場合で言えば、『三四郎』の状況でも、時速300kmで移動する新幹線でも、どちらでも通用する「旅行ですか?」のようなコミケーションをとれることを学ぶことが、演劇教育だということである。

出張帰りで疲れていても

 出張帰りで疲れていても、少し帰宅への足取りが軽くなる様な、ちょっとしたコミュニケーションが確かにあるはずである。繰り返し言われたことの一つに、全ての文化的背景を知っていてマナーとして、コミニケーションをとることは無理だとの発言には、この演劇・コミニケーション教育が一問一答式の様な単純な知識ではないことの重大な示唆があった。
 それはけっして「新幹線では、隣の席の人と話さない」ではなく、この人には「疲れている様子なので、気を使わせる様なことは話さない」とわかることが大切で、それは状況と人物同士の関係性で、その都度変わる。この変わる状況全ての答えをあらかじめマナーとして学びましょうというのは、無理だ。

 これら、これから人生においてあらゆる状況で、起こることに対して、適切な解答例として、未来予想の処世術としてコミニケーションを学ぶことはおよそ意味がないとおもわれる。おそらく今後起こる未来の複雑な状況全てに今の段階で”正しい接し方”の回答を求めることは不可能だと思われる。
 しかし、これからの未来は、確実にコミュニケーションの状況は複雑になり、『三四郎』の登場人物が、新幹線に乗っていたり、出張帰りのサラリーマンが熊本から東京行きの夜行列車に乗っているようなことも起こり得る。その時に、どう振舞っていいのかわかりませんでは、社会はちょっと物騒なものになる。相手のことや背景を慮り、その相手が望むコミケーションができる様にならないと、社会は信頼できずに、コストのかかる不信感を伴ったギスギスしたものになってしまう。

身体的文化資本の力

 まとめとして述べられた「シンパシーからエンパシーへ」は皆が学ぶべき態度で、共感がうまくできないと、そもそもソリューションを見つけだしたり、問題を昇華させることは出来ない。
 平田氏の他の講義動画や、『新しい広場をつくる: 市民芸術概論綱要』でも繰り返し言及された、この「身体的文化資本」としてのエンパシーの力は、地方と大都市圏とで、経済的な格差の拡大や経済構造の変化に伴い、差が広がりつつあると言われ、私は、地方に暮らすものとして、WSDの活動を通して、少しでもこういった環境による格差が減っていく様な活動をしたいと思っている。

 そのためには、私自身、WSの実践とともに、この様な演劇教育やコミニケーションについて、主体性を持ち学び続けていきたいと思う。

追記
 そして、唯一見ている民放番組が『有吉の壁』だというのも、多分即興中毒の結果だ。即興じゃないかもだけど(笑)。
https://www.ntv.co.jp/ariyoshinokabe/


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