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「エウゲニ・オネーギン」開幕に寄せて〜1つのライトモティーフを深掘りする〜

いよいよ1月24日より新国立劇場2024年最初の公演「エウゲニ・オネーギン」が上演されます。2019年のシーズンオープニングで初演されたドミトリー・ベルトマンの演出の再演です。

【指 揮】ヴァレンティン・ウリューピン
【演 出】ドミトリー・ベルトマン
【美 術】イゴール・ネジニー
【衣 裳】タチアーナ・トゥルビエワ
【照 明】デニス・エニュコフ
【振 付】エドワルド・スミルノフ
【舞台監督】髙橋尚史

【タチヤーナ】エカテリーナ・シウリーナ
【オネーギン】ユーリ・ユルチュク
【レンスキー】ヴィクトル・アンティペンコ
【オリガ】アンナ・ゴリャチョーワ
【グレーミン公爵】アレクサンドル・ツィムバリュク
【ラーリナ】郷家暁子
【フィリッピエヴナ】橋爪ゆか
【ザレツキー】ヴィタリ・ユシュマノフ
【トリケ】升島唯博
【隊 長】成田眞
【合唱指揮】冨平恭平
【合 唱】新国立劇場合唱団
【管弦楽】東京交響楽団

指揮者はロシア人のヴァレンティン、若いですが劇場的センスが抜群!2日しかないBOでは完璧とも言えるリハーサルをしてクオリティをどんどん上げていきました。オーケストラや歌手の統率力も素晴らしい。

キャストにロシア語ネイティヴ6人を配しています。日本人のキャストも事前の言語指導に加え、現場でもネイティブから指導を受け、ロシア語がクリアーに聞こえます。さらに指揮者も驚くほど新国立劇場合唱団の音楽的クオリティ、そして発音のクオリティが高いです。「オネーギン」を聞くにはうってつけのスタッフ・キャストです。

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さて「オネーギン」を聞いていると作品中に何度も聞こえてくるテーマがあるのに気付きます。ライトモティーフと呼ばれているものです。全曲には複数のライトモティーフが存在しますが、今回取り上げたいのはタチヤーナの「愛の告白」の際に聞かれるライトモティーフです。全曲中6回現れます。

その最初の登場は有名な「手紙の場」の前、乳母フィリッピエヴナ(ニャニャ)とのシーンです。

タチヤーナ「ああニャニャ、ニャニャ、私苦しいの、私焦がれるの病気になったみたい 愛しいばあや 私泣きそうよ 今にも泣きそうなの!」

何が印象的って、その和声進行です。ハ長調の和音で「ア〜ニャニャ」と歌ったと思ったらすぐに転調します。3小節目は b d e g♯「増6の和音」です。安定した響きから狂おしいまでの緊張感を孕んだ和音へと進みます。

「増6の和音」は、低音のbと上声部のg♯が増6度離れていることから名付けられています。芸大和声的に言えば「属7の2転、5音下方変位」ってやつですが。チャイコフスキーに頻出する和音で、先日ご紹介した「手引」には「増6の和音」の1章が設けられているほどです。(前回記事↓)

そこから4小節目にはA→A₇と進み、なんと5小節目にはh-mollの属9に行きます。作曲者の理論によると属9の基本形の第9音(この場合タチヤーナの歌うg音)は前からの予備を必要としますが、ここでの第9音は予備がありません。この規則破りが却ってタチヤーナの狂おしい気持ちの表現として立ち現れます。こう書くとこの属9が異様な感じに響くと思われるかもしれませんが、実際聞いてみるととても自然なメロディーの運びになっています。直前2小節のメロディーの流れが属9のg音を期待させるからです。直前2小節のタチヤーナのメロディーの動きは

e d c#d
f e d#e

小節開始音が e f となっており次に g が来るのは自然というわけです。
しかしチャイコフスキーの凄いところは前の小節の模続進行にせず、第9音のgは減5度の跳躍を伴うのです。なんともドラマチック!再び第9音に戻るとh-mollの構成音を音階で降りてきます。

6小節目はh-moll主和音 a-mollのⅡ₇の2転 属7の1転と進み7小節目にはa-mollに行き着きます。揺れる乙女心を表すように調性も激しく揺れるのです。

さてこのモチーフがなぜこんなにもドラマチックなのか、その秘密を探ってみましょう。タチヤーナのメロディー、装飾された音を取り除いて単純化すると

c→d→e→f#

という上行進行、それに対しバスは

c→b→a→g→f#

という下降進行をとります。
扇が開くような見事な反行形ですね。安定したc-durの響きが拡大を伴い、揺らぎ、タチヤーナの胸の内を見事に表現しているというわけです。
その直前はニャニャの昔話、安定した民謡風の音楽に比すとその違いが明らかです。

2箇所目の登場は直後のニャニャ
「お嬢様 お加減が悪いのですね
主よ お憐れみを われらを救いたまえ!
聖水をあなたに振りかけましょう
あなたはとても火照っていますから」
と言った後のタチヤーナが歌う箇所。

タチヤーナ「私は病気じゃないの 私は、…わかるでしょ ニャニャ…私は…恋をしてるの…」

盛んに聖水を振り撒くニャニャを制止するかのように、恋をしてると語るタチヤーナ。先ほどタチヤーナが歌ったメロディはチェロによって演奏され、彼女の気持ちを表現します。

3箇所目は有名な「手紙の場」の前奏です。

「手紙の場」開始部分

G線の1stヴァイオリンが咽び泣くようにタチヤーナの狂おしい気持ちを表現します。調性はE-durに変わっています。

4箇所目は「手紙の場」が終わり夜が明け、遠くから牧人の笛(オーボエ、ファゴットで奏される)が聞こえてきた後に出てきます。

タチヤーナ
「ああ、夜が明けたわ
すべては目覚めて 太陽が上って行く
羊飼いは笛を吹いている…すべては穏やかね
だけどこの私は!この私は?」

ニャニャ再登場の直前、モティーフはチェロソロ

ここではチェロの独奏になっています。このようなチェロのハイポジションのメロディーをチャイコフスキーは好んで使っています。初登場の激烈な感情に較べると、幾分落ち着いた印象です。手紙を書き終え心の迷いも若干収まったのでしょうか。この後ニャニャが再び登場し手紙をオネーギンの元へ届けるよう懇願します。

5箇所目はこの場面の後奏です。ニャニャに手紙を託し、一人になったタチヤーナは物思いに耽ります。

1幕2場オーケストラによる後奏

モティーフ開始部分(練習番号18)は初出と同じC-dur、しかしこれまでと違うのは属9の和音のところでも模続進行が続き、扇は開き続けていきます。再び装飾された音を取り除いて単純化してみましょう。上声部は

c→d→e→f#→g→a→h→c

という上行進行、バスは

c→b→a→g→f#→f→e♭→d→c

という下降進行、見事な反行形をなしています。属9での逡巡がなくなり、ある意味スッキリした進行なのは、手紙を託し後はオネーギンの返事を待つのみの状況になったタチヤーナの心境を表しているかのようです。しかしただの反行進行で終わらないのがチャイコフスキーの憎いところ!この譜例の後は次のように進行します。

上の譜例の続き、最後の小節に注目

同じような反行形が繰り返され、テンポと音量が増していき、一度は安定した響きに到達します(Moderato Mossoの小節)。しかしその次の小節の和音はチャイコフスキー伝家の宝刀!増6の和音です。配置は
f# a♭ e♭ c
となります。(メロディーの最初のdは転移音なので本来はc)

配置が不思議なので気づきにくいですが、a♭ c e♭ f# という配置に直してみると a♭とf#が増6度の関係であることがわかります。この和音はその第3転回形をとっています。メロディー(d c h c)が保続されていますので進行としてはあり得るものでしょうが、低音f#が予備もなく鳴らされるのにはかなりびっくりします。cからf#という禁忌とされていた3全音であることも影響していると思います。でもこれがチャイコフスキーの魅力と言っても過言ではありません。

ちなみに芸大和声ではこの増6の和音は「ドッペルドミナント短調属9の和音の第1転回根音省略5音下方変位」と捉えることになります。ややこしや〜ですが、C主和音のドッペルドミナントはD主和音、その短調属9は
d f# a c e♭
第1転回(f#を低音)にして根音dを省略して、第5音aを半音下げると
f# a♭ c e♭
となるんです。ドッペルドミナントは機能的にはサブドミナントに当たりますので、私のような芸大和声の頭の持ち主にはここの進行が「アーメン進行」に聞こえるわけです。(トニック→サブドミナント→トニック)

まあ、難しいことは抜きにして!いかにもチャイコフスキーらしい音の運びをしてるなって思っていただければ良いと思います。

このモティーフの最後の登場箇所は第3幕、グレーミンのアリアの後、彼の妻となったタチヤーナをオネーギンに紹介する場面です。

3幕グレーミンのアリアの直後、クラリネットのメロディーでモティーフが回帰する

レンスキーを決闘で殺めてしまった後放浪の旅に出て、久しぶりに社交界に戻ってきたオネーギン、ここで期せずしてタチヤーナに再会します。この場面の会話を挙げておきましょう。

グレーミン「さあ 行こう 君を紹介するよ。
妻よ 紹介させてくれ 親戚で友人のオネーギンだ!」
タチヤーナ(オネーギンに)「私はとても嬉しいですわ
前にお会いしたことがありますね!」
オネーギン「あの村で、しかし…ずっと前のことです」
タチヤーナ「どちらから?確か私たちの村にはおられませんでしたね?」
オネーギン「ええ!遠いさすらいの旅から戻ってきたところです」
タチヤーナ「戻られてどのくらいに?」
オネーギン「今日のことです」
タチヤーナ(グレーミンに)「あなた、私は疲れましたわ!」

グレーミンの「妻よ〜」の背景にモティーフがクラリネットの演奏で回帰されます。1幕2場以来久しぶりの登場であり、タチヤーナとオネーギンの間にかつて起こったことが走馬灯のようにフラッシュバックされる効果を持っています。グレーミンのアリアに感動した後は、このモティーフによるオネーギンとタチヤーナの表情を見逃さないでください。

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さて、1つのモティーフの登場箇所を全て見てきました。これらのモティーフがどのような作用を聞き手にもたらすか、は、やはり劇場で見ていただく以外に感じとるすべはありません。ご家庭で視聴するのも良いですが、劇場で生で味わうことにより、その劇性を体感できるのです。オーケストレーションによるモティーフの色合いの違いも現場で味わうに限ります。最後にこのモティーフが出る3幕など、やはり1幕からのドラマを追体験することによって特別な感慨を得ることが出来るというものです。今回ヴァレンティン・ウリューピン指揮東京交響楽団の演奏の素晴らしさもあり、それをよく感じ取れるはずです。ぜひ劇場でご覧ください。


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