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格差のオリンピック:無観客と言いながら、大会関係者(貴族)枠は残る。こういう社会はテロで滅びる他ないのだ。

本気でオリンピックが嫌になったのは600万円の観覧席だ。国立競技場には貴族席がある。フランス料理を食べながら競技を見れる。その席が抽選になったという。僕の年収の2倍だ。優秀だから富が集まる、無能だから貧乏なのだというメンタリティこそが格差の方程式の「答え」である。

結局、貴族が下々の踊りを見て喜ぶイベントなのだ。アスリートは、企業に買い取られている。その舞台を作るために「パブリック」と言う概念が使われる。面白い構造である。

民主主義という合法的な贈収賄

パブリックというのは「構造化され、合法的な贈収賄の事」を言う。コロナのワクチン接種も同じ様にひどい話であるが、製薬会社のために行政が精一杯である。当然、メディアも一生懸命だ。

買い取られた民主主義は、全体主義と何ら変わりない。そして、パブリックな権威である大学の教授は企業のために論を尽くしエビデンスを集め、反対者を異端・陰謀論者とよび、金を儲ける。

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貴族席が悪いのではない。そんな席を作らなければならない社会が悪いのだ。

トランプが悪いのではなくトランプを選ばざるを得ないところまで追い詰められた庶民を生んだ社会が悪いのだ。

面白いのは、これらの貴族席はこれ以前のオリンピックからすでに作られているという。

当然、アメラグやその他のイベントにはある。しかし、市営体育館には「貴族席」有るだろうか?市民がみんなで使う施設にはないのだ。

大金持ちが見物するためにこの席はある。日本中の公務員がボランティアでで集められ、金持ちの見世物のために踊るのだ。あっぱれ。

1964年のオリンピックでは、国民全体のためのオリンピックだった。施設もインフラも「パブリック」だったのだ。特権階級のためのものではなかったのだ。

選手宿舎は、一般の人の住宅になった。今回のオリンピックの宿舎は億ションで下町のコミュニティを破壊するのだ。あらゆる建造物が、富裕層のための施設になっているのだ。インフラの整備と言って、便利の良いところから庶民を追い出して、格差の象徴の建物を建てる。やがて街は「雲の上の御殿」と「スラム」に分断され、この辺りは治安が悪いねえと嘆く連中が幅を利かす。ニュヨークを見ればわかる。世界は貴族のためにあるのだ。

オリンピックの嫌なところは、全体のためだと言って、一部の富裕層のために行われている。そして、このオリンピックで企業の宣伝が行われ、ますます金持ちに金が集まるのだ。

「オリンピックのスポンサーするくらい立派な企業だ」と思う下僕根性が悪い。コイツラは敵だと思わなくっちゃ。

庶民は、感動をもらったとおお喜びだが、何と値段の高い感動だろうか。

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おそらく1980年代が分水嶺になっている。レーガンが大統領になって、民主主義が企業に買い取られた時代である。

マイケル・ムーアさんの映画を久しぶりに見直した。今もnoteに下書き中であるが、面白い映画である。

この映画の中で、ムーアさんがお父さんと話をしているところで僕は涙が止まらない。

彼は、労働者の子供だたのだ。そして、地域で企業が人と人とをつないで共に生きていた時代の子供なのだ。それは僕の「百年しばたの物語」につながる。

「アポ無し訪問」とかで色物と扱われることが多いが、ムーアさんは素晴らしい心を持っている。

おちゃらけた予告編だが、そのうちには熱い思いが有る。ヒューマニストである。こちらの映画は、未来に希望を持っているのだ。

じっくりと見直していきたい。

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ちょっと笑ったのは(ハラがたった)、町山という輩が解説している所。僕はこの男が大嫌いなので見ようと思おわわないが、キャピタリストの手先の手先のようなやつがYou Tubeで小銭稼いでいるのは不愉快である。

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#町山智浩 #上杉隆 #マイケルムーア #オリンピック # # # 

厨房研究に使います。世界の人々の食事の価値を変えたいのです。