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『百年のお裾分け』(1)母と買いに行ったボタン、失われたお裾分けと人の繋がり

民俗学と言う視点は『時間や空間的』に離れた生活を記録するものでも過去を懐かしむノスタルジアでもない。自分の生活との違いを見ることで『私たちの本質=構造=(律)』を探すことが目的だ。

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母のお裾分け

母は、自分で料理を作れた頃はいつも近所に住んでいる親戚のIさんに作ったものを届けていた。天ぷらを大きなお盆にいっぱい作っては持っていていた。Iさんご夫婦には子どもさんがいなかった。随分後に親戚の子と養縁組をしていたが、一緒には住んでいなかった。

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小さい頃、僕はよく遊びに行ってはお菓子をもらっていた。叔父さんがガンで手術の後に亡くなったときには書道の筆や硯を頂いた。お二人は温和で、子どもさんがいなかった。清楚で掃除の行き届いたご自宅に住んでいた。母は和裁の師匠のもとにいたので、学校がいりにお邪魔して、きれいな庭で遊んだことをもい出す。ご夫婦は電電公社(NTT)で知り合った職場結婚と聞く。優しい叔父さんと、喋り上手なおばさんであった。

Iさんは一人になって随分と暮らしていたが、ある日「認知症」と診断されて介護施設に入った。子どもに連れられて母のところに挨拶に来たという。母は「認知症っって怖いね、あんなに活発だったIさんが何を話してもうなずくだけだった」といった。僕はそれは心を黙らせる薬のせいだよと言いかけたが止めた。後から考えれば、その頃母も食事を作れなくなり始めていた。精神安定剤(ディバス)を処方されていた。

僕の母はいつも近所の人にお裾分けしていた。


知り合いで一人で人生を送っている人とのつながりを大事にした。Uさんという母子家庭の方とのことを思いだすと僕は涙が止まらない。

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当時は母子家庭などというのはとんでもない話だった。

家族と言う「セル(細胞)」が「農家・商店・企業」であった時代ののことだ。「食事・教育・医療・介護」すべてが3世代の同居の中で『家族』と言うシェルターであり欲望を閉じ込める檻で生きていたのだ。パワハラもセクハラも昔からあったのだ。それは「家族」と言う枠の中で欲望を戒めていたのだ。今やその檻はなくなったが、ヒトの「律」は変わらない。メディアやSNSでのバッシングは檻のもたらすものだ。

噂では、お妾さんだったと聞く。新発田の赤線地域の傍に小さな手芸店を営んでいた(1960年の売春禁止法以前は賑わっていた地域である)。母の生家は少し離れたとこだったが、「小学校卒業」が最終学歴の母にとってはもしかしたら仲の良い幼馴染だったのかもしれない。

Uさんは息子さんと2人で暮らしていた。母はいつも裁縫道具を買いに行っていた。息子さんの成人式には僕の持っていた背広を差し上げたらとても喜んでくれたという。安い吊るしの背広であった。僕は結局実家に置きっぱなしにしていたのだ。

やがて息子さん(なにかの障害があった)は早くに亡くなり、手芸店は近隣に出来た大手のお店に客を取られてしまい始める。

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小さい頃、お店に一緒に行ってきれいなボタンを探しては母にねだっったことをよく覚えている。使うことのなかったボタンは今も家にある。一度、実家に遊びに来ている所で、マーちゃんいつもボタン探していたねと笑っていたことがあった。

皆貧しく、世界は困難に満ちていた。

当時は皆貧しかった。平等に貧しく、少しだけ豊かな人たちがいたのだ。

今は何と豊かになったのだろうか。しかし、その豊かさはもっと豊かな連中にとっての富を生むための仕組みだったのだ。

そしてその代償はあらゆる物を金で買える世界である。というよりも、あらゆるものが金でしか買えなくなってしまったのだ。「食事・教育・医療・介護」いずれも、行政に委託され大事な物を失った「政治的に正しく公平な政策」として私企業に委託され、でかいビルが立つのだ。

その絆を生んだ「貧しさ」は見事にきえた。多くの商品を買うことのできる「パートタイムスレーブ(時給の奴隷)」の時代である。

では、このグローバル化の極限といていいほどの世界で、人と人との絆を見つけ出すことが出来るだろうか。

自分でやるほかない。

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母の一周忌の父の供養の行脚

母が亡くなった後で父がIさんの家に歩いて行って話をしてきた。どんな話をしてのだろうか。母の供養になっただろう。

数年前から、お店の前を通るともはやそこはお店はなく空地になっている。そして昨年父も亡くなった。

もはや、そんな時代があったことも、そんな絆が私たちを支えていたことも見事に消し飛んでしまった。私達は「家」から開放されただけではない。多くの自由を得たが「共生する社会と言うコロニー」を失ったのである。

サンゴ礁で多くの生命と共に生きていた魚が水槽に囚われた様に見える。

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ヒトは一人で生きているのではない。

昨年は中止になり、今年も国体はトラブル続きであった。売上が消し飛んで大騒ぎであった。そんなかんなで気がついたら、「町内会で会館の隣の土地を買って駐車場にする」という。お祭りをそこですると町内の人の絆が深まるという。僕はそうは思わないそこで焼きそば焼いたりはボランティアにやらせて、近隣のヒトは安いビールを買って帰るだけだ。そこにま見ず知らずの誰かがいるだけだ。役人考えそうなことである。市役所のの補助も出るという。大喧嘩になった。そのときに代案があるのかと言われた。つまり隣近所の繋がりを呼び戻すいい方法が有るのかと言われたのだ。彼等(僕の10~20年先に生きる幹部連中)も恐ろしかったのだ。

土地をかって、駐車場にすればかつての人と人との結びつきが戻ってくると思ったのだ。それは無理というものである。繋がりがあるから「祭り」があったのだ。

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皆年取った時にひとり家でTVを見ながら冷凍の宅配の食事を待つのは恐ろしい。施設で、コストカットされた食事を食べながら一人孤独に待つのは嫌だ。管だらけになって年金ATMとして頑張らせら4、ミイラになりながら生きて、孤独に死ぬのだ。

僕はまっぴらだ。

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「百年のお裾分け」の始まり

そこで考えた。「お裾分けの食事」を商売にしてみたらどうかと思った。商売と言っても、誰かにやらせて利を稼ぐわけではない。自分の食べるものを少し多く作って食事を配り、毎日のふれあいの内に絆ができるのではないかと思った。補助金やカンパは受けない。毒まんじゅうは美味いが事業を潰す。政策は時により変わり、その金をあてにしているとその事業は消える。誰がを揚げるために人をつかう仕組みも同じ。僕は同情乞食ではない。

僕が食事を作れる間は作ってあげて、80歳になったときは僕が誰かに作ってもらったものを食べる仕組みだ。当然365日作る。僕一人では駄目だ。ある程度生活が出来ていて、「志」に賛成してくれる仲間と一緒に作る。継続されなければならないからキチンと働いた分はお金で払う。少し余分に作って自分の家庭でも食べることが出来る。

やがて僕が動けなくなたときにも後を継ぐ人が出てきてもらいたいのだ。売上は皆で分ける。誰かが利するための仕組みは僕は好まない。

ある程度数が売れないと給料も出ない。その代わり数が出れば収益も上がる。そしてその月の終わりに余分に売り上げた分を、稼働時間(毎日の作業時間の合計)で割って、一人一人に分配する。インセンティブは個人の能力や働きで分けるのではなく、全員で分ける。

昔、努めていた不動産デベロッパでは、営業のボーナス(インセンティブ+)はとんでもない金額になっていた。営業職ならば大金を客から巻き上げるが事務職はそのチャンスはない。しかし、そんなに個人に能力の差はないのだ。そして事務員がいなかったら営業職だって物は売れない。明らかに不公平である。社長は株式を持ち人事権も絶対であるが、一人で何が出来るだろうか?志をともにして皆で働く組織にしたいから、僕は給料の差などつける気はない。もちろん家賃や減価償却に対応した積立金は発生させるが、50食程度の売上ではマイナスである。働いてくれているひとには800円の時給は保証する。とは言っても100食くらいまでは、僕一人で出来るだろうが。それよりも何よりも、食事を作るノウハウを共に学ばなければならない。『試用期間』的なもの(仕事の軽重をつけて、学んでもらう)は考えたほうが良いが、時給は変えたくない。管理主任のような資格に対しては、インセンティブで荷重すればいいと思う。事業が赤字なのに基本時給だけが格差があるのは好まない。

経営者や所有者が働いているひとには最低の金額を払い残りを取るというおはおかしい。しかし、僕だってそうしたい。けどね100年続けて行きたいいのだ。僕が食べる側になった時そんな会社からは食べ物を受け取りたくない。誰かを家畜のように働かせて、利を得て、所有者が大金持ちになるのは「お裾分」けではない。

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30食では一日3時間で日給が『3200円、100食で3800円、150食で8,500円、200食なら15,000円」になる試算ができた。皆が働いて上がった売上皆で分ける。200食で1っヶ月毎日4時間フルに働くと20万近くになる。僕の売上よりよほど良い

しかし、200食以上は作らない。多く作り始めると手順をかんたんにして美味しさが逃げる。センター給食を見ればいい。歩いていける範囲に自分の食べるものと同じものを配る。配る範囲に住んでいる仲間が一緒に作る。

そして良いことに、僕には自分で弁当を作る力がある。父に5年間作った食事だ。サンプルを近所の方に配り意見を聞き始めている。皆大喜びである。

第一期

爺ちゃんに5年間毎日作った食事である。母のことを思い出しながら、家族と共に生きた体験は金では買えない。政治的に正しい栄養学の作る食事ではない。

「百年のお裾分け」と名付けることにした。沢山の人と話し合いながらコンセプトを作っていっている。

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誰の記憶にも残らない父母とUさんの思い出はもはや想像することしか出来合い。

父母はあちらで皆さんと笑い合っているであろうか。「真也も早く来ると良いね」と母が口をすべらし、父に「そんな事言うもんじゃない」と怒られている姿が目に見える。

大丈夫そんなには待たせない。20年くらいあっという間だ。その時に面白い話を聞かせてあげる。

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#百年のお裾分け

厨房研究に使います。世界の人々の食事の価値を変えたいのです。