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世界のために投票する人間などいない。

原発の再稼働方針が「ちら」と報道された。
愉快ではない。
選挙が民意を反映していないなどという方々もいるが、それは誤りである。
見事に今の時代を反映させている。
社会は分断されて、「正直に物を作る」人と、時給安く作らせて「ピンはねする頭の良い方々」に分かれている。

正直なタンス屋の婿養子だった、祖父はやがて政治の世界に惹きつけられていく。

相変わらず、野党は野党のままであるが、当たり前である。
今や行政の使う金を当てにしなければ多くの企業は成り立たない。
基本的に行政は「発注」しかしないので「政商」たちは税金を使って商売をする。今の政治が自分の商売に直結するのだ。
社員も知っている。
だから社員も、売上をもたらす方々に一票入れる。

役人は産業を伸ばすと意気込んで地域の特産品を押すが、実は別な地域のたんす屋を潰すことになっていくのだ。グローバリズムというのは同業他社を破滅させる。しかし、役人は自分たちの給料の元を確保するために弱い者いじめをする。日本の「物作り」産業が破壊されたのは資産家に利を与える政策を立案した役人と背中を押した学者連中である。

政治(デモクラシー)は、貴族が「自分に富をもたらす奴隷」をいかに分けるかの平和的な取引である。
戦争さえも、取引の一端である。

昨今では、奴隷自身に決めさせるのだ。これを「貧困の自己責任」という。


役人は、自分たちの権限を増やす方針に大喜び、メディアのように物を作らないで物売りの手伝いでおこぼれを掠め取る輩も政権を支持する。
大企業は政治家に金を渡して権益を受け取る。
教育組織も今や役人の一変種である。
宗教団体も政治家を広告等に使う。

地元に来たサーカスの象を借り受けて街中をパレードしたという。母の父親は恐るべき戦略家であった。笹川三作さんの立会演説会で、トラックの上に乗って母はスピーチをしたそうだ。女性が人前に経つことも珍しい頃に、ウスイス嬢どころではない。とんでもない時代である。各地域で自分たちの代表が市会議員として利権を取り合ったという。地域が民意であった時代である。見通しがよく、みな誠実にずる賢い時代であった。

結局、野党が少数派なのは当たり前である。ヒトは皆自分のために投票する。政治家とつながりを持ち、自身も市会議員を3期務めた母の父親の人生は波乱万丈であった。
戦後、箪笥屋を廃業して農家の土地を買い転売することで利を得るようになる。その子孫は似たようなことで財を成した。
母の死去をきっかけに縁を切った。自分は物を作らないで人の働きからピンはねする典型的な成り上がりである。
悪いとは言わない、多くの人の恨みを買うのだ。ソレナリの死に方しかしない。まだ経済が地域に閉じた時代の物語である。

お偉い連中は世界の隅々まで自分の利を求め忖度する起業家

50年の社会の変化が政治を変えた。


しかし、その変化は、グローバリズムの当たり前の帰結である。
かつて、社会は、「家族=生産と消費の場」の融合体であった。そして、それぞれの家庭の収める税金をいかに社会で使うかの議論の綱引きであった。

皆自分の家(企業・農家・商店)の主の声がその使い道を決めた。しかし、小規模の生産の主体は消えて、グローバル企業の時給で人々は生活するようになる。金を出しているのがグローバル企業へと変わってしまったのだ。


この50年のグローバリズムは根底から変えたのである。ご近所さんを破綻させることなど誰も望まないし、その家庭の事情もよくわかっていたのだ。
利益は生産主体の頂点に集まる。その集まった利益に対しての使い道なのである。
かつては、「子育て・医療・公共財の整備・介護」全て自分たちでやっていた。地域の共通材(山・川・海・人)は自分たちのものであった。パブリックという形で全て取り上げられて、公のもと言う美名で利を稼ぐ企業の草刈場となった。

当然であるが、この現象に改善策はない。
こうなってしまった社会は多くの遺跡文明のようにテロで滅びるほかないのである。


厨房研究に使います。世界の人々の食事の価値を変えたいのです。