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食事の中の生命とは何か:「細胞を食べる」伝統的な調理プロセスvs.「栄養素を食べる」政治的に正しい栄養学

食事の中の生命とは、「細胞」のことである。ウイルスや、細菌も生命に入る。植物も動物も全ての「生き物」は脂質の膜で覆われた水の中に無数のタンパク質が漂っている。
「植物・動物」というカタマリ(マイクロバイオームのコロニー)を生命と考えがちである。しかし、「植物・動物」というのは、サンゴ礁のようなものである。外界と隔絶することで一定の環境を生んで「細胞生命」が生命活動を維持しやすく「適応」したものなのである。

タンパク質の研究はこの10年で恐ろしく進んだ。DNAが記述しているアミノ酸の2次元配列だけではタンパク質はわからないのだ。狂牛病の患者に特異的に見られる「ブリオンタンパク」の研究はタンパク質の立体構造が「まとも」でないと本来の機能しないということを見つけ出した。タンパク質のフォールディング(折りたたんで立体構造を作る工程)はどこに記憶されているのかということは全くわかられていない

ヒトのDNAは15,000種類程度しかタンパク質を記述していない。大腸菌の10倍程度である。人の身体を形つくっているタンパク質は遥かに多く必要である。食物連鎖の中で、作り出されたタンパク質が生命の連鎖の中で使われ続けていると考えねば説明できない。

「潔癖症的生命観」=バイキンは汚くて悪者

私達は長く感染症に苦しんできた。マイクロバイオームが身体の内に入り込み発病した。パスツールさんがマイクロバイオームが「存在する」という仮説を立て、1960年台のDNAドグマの発見(新たな「神」の登場)やがて電子顕微鏡が目視の確認を行い、2000年代のヒトゲノム解析がDNAを検出することが出来るようになった。それ以前は、検体を培養して数を増やして確認する他なかったのである。DNA解析とは、マイクロバイオームの死体から存在を推定する技術である。それは影の形から姿を見ようとするものである。
世界をDNAの残骸から再構成する試みは、現在のマイクロバイオーム学へと続く。そしてよく効く薬とサプリメントがメディカルキャピタリストに富を与え、多くの患者に苦しみと管だらけでの施設での死を与える事になる。

しかし、残念ながら、DNAの検出は「存在」を推定するだけであり、そのヒトにとっての疾患の「病因」であるかどうかに関してはわからないのだ。発症と感染の間には大きな溝がある。
細胞が、細菌に対しての耐性がない時に発病するのだ。そして細胞は常に外的に対して向き合っているのだ。免疫が敵を倒すのではなく、一つ一つの細胞が外部に適応していくのだ。受精卵が着床するまでの間、免疫系は存在しないのに外部に対して生き続けるのが良い証拠である。

細胞を単位に感染症を考えると、まったく違った世界が見えてくる。ウイルスが、細胞間のコミュニケーションの道具であると考える研究者は多い。

「政治的に正しい生命観」と言う妄言

『身体の内側にはバイキンはいない。免疫がみんな退治する。食事は「劣った原始的な生物」を分子のレベルまで分解(単純な化合物は勘弁してやる)して吸収する。だから身体の内側はクリーンなのだ。細菌もウイルスも寄生虫も皆「ヒト」を害するものだから免疫系がバラバラに破壊してくれるのだ。』これはまさに大昔の思い込みである。

これに対して、僕の食事メソッドの根幹にある生命観は全く違っている。
身体はマイクロバイオームのコロニーであり、食事の中の「細胞生命」を腸肝循環で十二指腸に分泌された免疫系が「貪食=消化」して再吸収される。

決して分子のレベルまで分解するなどということはなく、食事の中の立体構造をもった「(ミネラルなどを組み込んだ)タンパク・脂質」が身体の内側に入ってくる。身体の内側の海ではそれらの代謝物や生命(細胞膜が残りながら貪食された細胞)は再度利用されるのだ。
ヒトに限らず、あらゆる生命の生得的に持っているDNAにタンパク質のコードはあまりに少ないのだ。他の生命を食べることで、その生命にとって必要な代謝系を受け入れると考えれば納得がいく。

食事は食材の「水」をいかに維持して身体の海に取り込むかというノウハウの塊である。素材から厨房で作ることで食材の生命が失われてから最短距離で身体に招き入れられるのだ。

政治的に正しい栄養学は「必須アミノ酸」と言う名前で作り出す代謝系を持たない「アミノ酸」にだけ注目するが、「アミノ酸が繋がり立体構造となったタンパク質」については全く手つかずである。「全てのタンパク質を身体の内側で作ることが出来る」などと思いこんでおる(笑)。
それが今の私達を苦しめている「病因のない症状だけの病」の生まれる素地なのだ。専門家の太鼓判の押されている「栄養満点の食事」は身体を不良品(?)にする。

身体の内なる海に漂う細胞生命たちは最適化されたタンパク質が見つからない場合は類似品で身体を作る。難病はあたかも別々な病気の等に取り扱われる。しかし、共通する特徴がある。「膜」に発生する炎症、早すぎる致命的な臓器の損傷、「免疫」の誤作動(動くべきタイミングで動かない場合)、いずれも適切なパーツがないために代用品で都合合わせをしていると考えると納得がいく。この50年で「食事が商品化」されたことが問題の根源である。利益のためにコストを最低限にする「効率的な」調理方法が生命を破壊した「時間が来たら半額になる弁当やらオニギリやらサンドイッチ、お湯ふやかして食べるメン、」ドッグフードのような飯が生活習慣病という検査値の異常を引き起こす。
「検査値の異常」は「お代わりの出来ない臓器組織の破壊」の原因ではない。その両方は相関関係はあるが、因果関係はない。

かつて私達は食事を同じ環境の中で『生きている植物や動物』を採集することしていた。家畜化した動物も、その土地の植物や小動物を食べていたのだ。同じ温度湿度の環境でコロニーを作り細胞生命は生きていたのだ。食事は、マイクロバイオームがコロニーからコロニーへと移動していると考えることが出来る。セックスも、蚊が血液を吸うときも、寄生虫が産卵するときも長いレンジの生命の引っ越しなのだ。



当然、類似した代謝系を持つ。植物も「環境の内にいるマイクロバイオームのコロニー」である(後述)。

食物連鎖(=輪廻転生)の潮流の流れの内側で作られた「代謝物=ミネラルを組み込んだタンパク・脂質」を受け取って利用している。
昨今の水耕栽培で出来たキノコはコクがないのには理由がある。

植物の内側にミネラルが少なくなったという調査結果があるが、植物に肥料としてミネラルを与えたところで、そのミネラルを受け取り生体に組み込むマイクロバイオームがいなければそういう事になる。生命の連鎖が断ち切られ、形だけの植物が出来るのだ。

植物というコロニー

種が根を出して、芽を拭いてやがて大木になる。教科書には、植物は「水とミネラルを取り込んで太陽光線でエネルギーを作る」と書かれている。1960年代の「政治的に正しい栄養学」そのままである。

この考え方の裏側には、「科学」が「宗教=神」の必要を追い出したと言う思いがある。かつて、窒素固定(空気中の遊離窒素を生命に使えるようにする)については謎であったが、工業的に行えるようになった。一次大戦の直前のことである。生命を組み立てることが出来るようになったと思い込んだ瞬間である。原理的に窒素を固定できたところで。未だに生命は人工的に作り上げることは出来ていない。実際には根圏細菌が植物のコロニーに生きてすべての生命の源となると考えたほうが正しい。

マイクロバイオームから見てみれば、『土中の水分の内に生きている「マイクロバイオーム」』を根はおびき寄せる。水とともに数え切れないマイクロバイオームが種に入り込んで種の中を満たす。種由来のDNAはマイクロバイオームを「貪食(消化)」して、その内にあるミネラルタンパク質を利用する。タンパク質は「生体活性(水の中で維持される立体構造)」こそが重要で乾燥に弱い。植物が葉を出して光合成を始めるまででの間の発生のプロセスはまったく研究されていない。マイクロバイオームを喰らい、そのタンパク・脂質を使いコロニーのDNAに従った発生を繰り返すのだ。
当然、種から芽が生まれて光合成を始めるまでの間は自分に適したマイクロバイオームが必要である。あたかも離乳食前の胎児の様である。


ちなみに、母乳は血液と同じであるから、胎盤から離れて酸素の供給を自分の肺で行うようになって第一段階、腸管からの他の生命の吸収を可能となって第二段階と僕は考えている。なので、離乳食はできるだけ遅いほうがいい。腸管からの吸収は身体の免疫系(マイクロバイオームを分解する壊し屋)が十分機能しないと危険がいっぱいである。タンパク質はコロニー全体の方向性を決める役を理もあるのだ。ホルモンは立体構造を持ったタンパク質の目立った働きを言う。実際には細胞は互いにコミュニケーションを取っている。タンパク・脂質の絡み合った(糖鎖もつながる)サイトカインは細胞同士の情報のやり取りをする。


葉は1人の人間のようなものだ。生まれやがて死ぬ。環境の中で生きて環境を記憶する。新たな葉が生まれ世代が変わり、地に落ちた葉は土を変えて新たな生命となる。桜の下には死体が埋まっているのだ。

肥料が植物を育てると言うが、肥料を餌にしてマイクロバイオームは育つのだ。そして、マイクロバイオームが植物というコロニーで「貪食(消化)」されて新たな形へと姿を変える。



生命を食べるという言葉をきくことは多いが、それは「牛・豚・鶏」などの生きている動物をさして言う場合が多い。ヒトは擬人化に囚われる。「牛豚鶏」と言う単位での生命(コロニー)を殺すことが罪悪だと思う。しかし、大きな間違いである。
コロニーの死は、内なるマイクロバイオームにとってはたんなる引っ越しにしか過ぎない。受精卵由来の細胞群は、遺跡に残されたの廃屋なのだ。マイクロバイオームは環境に向き合うために身体というコロニーを形つくる。
美味しく食べることで生命は僕の中で生きるのである。
輪廻転生という考え方は遥かに世界をよく理解している。

剪定した葉を根本に置いてマイクロバイオームを通じて、再度「パキラ」のコロニーに生きてもらう。

昨今の「病因のない症状だけの病=破壊的な治療法と一生続く投薬」は人生の終わりを(本人・臨床関係者にとって)とても悲惨なものとする。メディカルキャピタリスト(製薬会社や病院経営者)は現状がありがたいから現実を変えようとしない。
この50年の社会の変化を考えてみれば、彼らの仮説が誤っているということが分かる。僕はその仮説のベースにある生命に対しての見方がある。僕はそれを「潔癖症的生命学」と呼ぶ。
身体は細菌のいない「聖域」ではない。森羅万象の神々が群雄割拠するコロニーである。コロニーの中でマイクロバイオームたちはダンスするのだ。
世界は変わりコロニーは姿を変え適応する。ヒトは死に、どう変わるべきかということを学んだマイクロバイオームは新たな世界に向き合っていくのだ。進化と呼ぶ方々もいるが僕には何も進んでいるとは見えない。

食事の中には「細胞」が在るのだが、その細胞はコロニーが死んだ瞬間から破壊され始める。空気中にはレンサ球菌やブドウ球菌と言った細胞を破壊して生命の時始まりに戻してくれる方々がいる。酵母と言われる方々は「酒」に戻してくれるので僕とは相性がいいが、そうでない場合も多い。

食事は、彼らに横取りされる前に「僕」と言う生命のコロニーにできるだけ破壊されない状態で細胞を取り好ための「伝統的な技術」である。

商品化された食事は工場で大量生産の食事を作る。「乾燥・抽出・濃縮」工程を経た細胞は(成分は同じかもしれないが)ばらばらになり、立体構造を失っている。それは成分は十分であるかもしれないが、身体というコロニーはほころびだらけになる。

問題は、医学が「商品化された食事」を原因であると考えていないことだ。

食事を買わざるを得ない生活は、社会の問題である。家族という食事作りのノウハウを維持してきたコミュニティは、1980年代のグローバリズム以降、破壊された。

伝統的な「乾燥・抽出・濃縮」工程は必ず「発酵・腐敗」工程を含んでいるのだ。工業的な「乾燥・抽出・濃縮」は短時間で高温、減菌工程を通る。生命は破壊され失われる。

今や家族という『知恵の継承』は失われた。私達は、「ヒトとしてコロニーを作り」生きてきた。互いに衰えていく身体をいたわりあいながら死を迎えてきたのだ。

残念なことにもはやそんなヒトとしてのあり方は失われた。ではどうするべきか?まだ考えあぐねている。
毎日、三食、素材からつくり、楽しく食べること、後片付けをいとわず他人に仕事を押し付けず共に生きている今の時間を大事にする。
いずれ一人になって死なねばならないのだから。

いま天日でトマトをドライにしているのだ。はたしてうまく出来るかどうかはわからないが、カワカワになったらオリーブオイルに漬け込む予定である。ものすごい匂いがする。
梅シロップを作っているが、産膜酵母が膜を作る。カビという人もいるが、梅の中で代謝を進めて旨味を作っているのだ。

厨房研究に使います。世界の人々の食事の価値を変えたいのです。