「だれも知らない小さな国」との出会い。
カナヘビを見かけることが多くなった。庭を歩くとカナヘビが目の端を歩く。チョロリチョロリと姿を見せる。
以前からも時折見ていたが、今は頻度が違う。一回庭を歩くと数箇所で出会うのだ。同じカナヘビではないだろう。木や葉を敷いて石を上に乗せるので、すみかや餌が増えたのだ。
生命の始まるところ
石の下には蟻の卵が一面にあったりする。腐らせたい木を並べたら上にブロックや石、スレートを並べる。竹の木が一番美味しいようである。すぐにボクボクになる。こうして植物が作り出した「生化学物質」は輪廻転生(食物連鎖の始まりである)する。
僕は、医学が解決できない「病因」のない「症状だけの病」は食事に原因が有ると思っている。それも医学が言うような「栄養素」の「欠乏や過剰」の問題ではない。
50年前の生活の中では食物連鎖のうちから受け取っていた「生命(多彩な生化学物質)」があった。アメリカ型グローバリズムは時給を下げ、共働きを強制する。そして「食事」が商品となった。家庭で素材から食事を作っていたときには「生命」が受け取れたのである。今の商品化された食事は、その製造のプロセスのうちに「生命」を追い出すのだ。そこに原因が有る。
皿の上の「栄養素の数」ではなく、「食材」から「食事」ができるまでのプロセスにこそ問題が有ると考えている。
生命が土に戻り、循環する。やがてぼくらの食卓までつながっていく。その長い道のり中にこそピンコロ人生の終わりを迎えさせてくれる秘密がある。
庭木を切って敷き詰めるのは素晴らしいことなのだと分かった。今回も梅を多く剪定した。枝葉は梅の根本に置いて土に戻すことにした。
数日乾かして、細かく切って根本におく。
梅は一晩水につけて、明日綺麗にヘタを取って、一晩乾かす、そして塩につける。
カナへビを見て、思い出した。
小学校の高学年の頃だと思うのだが、「誰も知らないっ小さな国」と言うハードカバーの本が家にあった。友達の居ない僕は何度も繰り返し読んだものだ。
今も鮮明に挿絵が目に浮かぶ。物語も素晴らしい。
1959年に発表された物語である。僕の生まれる一年前である。その後、挿絵が変わり、今でも愛されている物語であるが、僕にとってはこの最初の版が一番好きだ。スピンアウトも多くあるようだが、これ一冊で十分お腹いっぱいである。
最初にでた講談社版のイラストが好きなのだが、本が見当たらないのだ。ファンタジーという認識がなかったのだと思うのだが、正解だと思う。この後の版はイラストもいかにもファンタジーである。この版のイラストでは、コロボックルたちがいかにも「リアルで小さい人」である。
本当の物語のようで、嬉しかった。主人公が少年だった時代に出てくる「蕗売のおばあちゃん」のイラストよく覚えている。時折野菜を売りに田舎のおばあちゃんが来たものだ。
ラストのシーン素敵なイラストも大人の世界を垣間見せてくれて嬉しかった。僕の見つけた小さな国もいつか現実になると思えたのである。
コロボックルの物語
小さい頃に主人公はコロボックルを見る。そして、大きくなってコロボックルが彼の身近に帰ってくる。物語の後半は彼と彼の大事な世界を守るための大冒険となっていく。ジャックバウアーばりのポリティカルサスペンス(行政をも巻き込んでコロボックルの世界を守る政治小説)へと姿を変える。ワクワクしながら読んだことを覚えている。今でも、ポリティカルサスペンスは大好物だ。
そして、この物語の非凡なところは、ボーイミーツガールであるところだ。彼は(コロボックルだけでなく)恋人とも出会うのである。自分にしか見えないものが見える彼女は、生涯のパートナーとなるのだろう。そしてその裏側には実に巧みな伏線があり、物語を読む楽しさを教えてくれた。
愛とは、共に同じものが見える人の関係を意味するのだ。たとえ幻想でも二人で見えたならそれはもはや幻想ではない。そして「他人には見えない絆」なのである。
僕はSFが好きで推理小説が好きだ。ボーイミーツガールが絡んでいれば大好物だ。小さい頃大好きだった、「この物語」が教えてくれた楽しさなのかもしれない。
最高の物語というのは、嘘をついていない。この物語も、「コロボックル」が居なくともちゃんと成り立っているのだ。そこが凄い。主人公にしか見えない妖精であると考えてもちゃんと成り立っている。
後半のポリティカリイな展開も、全然嘘がないのだ(笑)。
昨今のSFと銘打っている物語は見ない粋な展開である。昨今のSFと言う物語は、現実にはありえないトンデモ超能力や特撮技術が満載である。びっくり仰天紙芝居を見せるのがSFだと思いこんでいる。僕は好まない。
小さい頃は、自転車で行ける範囲に山があり、洞窟が有ったり面白かった。駄菓子を買って、冒険の旅にでかけたものだ。今ではきれいに整った公園になっている。
18歳で父には「こんなところへは帰ってくる」なと言われ33歳で借金だらけになって帰ってきた。
田舎の生活は嫌だった。田舎は小さい世界でボスザルがいてそいつらの顔を伺いながら生きなけれっばならない。父が帰ってくるなといったこともよく分かる。父はさんざん嫌な思いをしてきたのだ。
僕の息子は遠くに行って帰ってこないだろう。なにせ仕事がない。
しかし、東京での生活も似たようなものであった。1980年からこちら、どこにも青山はない。神様も何も言わなくなって随分経つ。
そして父母の愛した庭を受け取った。不動産屋に売っぱらおうとした奴らと戦い僕と妻の名義になった。いつも思い返すのは、これで良かったのかということだ。年金は足らず、売上は少ない。人生の不安と天秤にかければ分からない。
自分の小さな国を見つけられた時代
この時代(1960年代)は小さな国を見つけられた時代なのだ。父と母は本家か離れ、この家を買った。そして未来を夢見て生きたのである。僕を東京に送り出した時の気持ちがよく分かる歳になった。
今やすべてのものは借り物だ。家賃を払い、パブリックのコストを払う。水も空気もただではないことは分かる。しかしね、そのパブリックの管理者(政治家・役人)が大金持ちになるという社会はおかしいとは思わないか?
自分たちでは何も出来ないから企業に丸投げしてそこでまたピンはねされる。「パブリックという共通の価値」を実現させることは委託したが、あんたらが富を自分勝手に吸い上げていいと入ってはいない。
科挙制度が中国を滅ぼしたようにこの社会も滅びるほかない。今の行政制度は効率的なピンはねと忖度の制度で出来ている。中南米の賄賂社会をバカにするが、アメリカも日本も「民主主義という合法的な賄賂」の社会なのだ。
そんなに働いても、どこかの誰かの所有物を使い生きることになる。食事さえも集金システムの一端である。貧乏人はコンビニ弁当で、金持ちは高級料亭での食事、いずれにしても富は吸い上げられるのだ。
そして僕はこの国を守ることが出来た。
生命を大切にするということ
父母から庭を受け取って、「僕の生命観」に従って庭と向き合っている。マユにご飯を作るように、庭も生命に溢れたものにして当たり前だ。哲学は整合性がなければならない。手間がかかるものであるが、面白い。
かと言って汲み取りトイレを作るというわけには行かないのが辛いところだ。せめてマユが死んだらタケノコ山に埋めてあげよう。僕も隣に土葬してもらいたいが、死んだら文句を言ってられない。
僕は、父母と別れて、誰もが持っている「矢印の先っぽの小さな国」と出会えたのだ。幸運である。
今日も庭を歩く。アチラコチラで僕のコロボックルと出会う。嬉しそうである。
人生に絶望して死のうとしている人たちにも見つかると良いね。
僕は何とか生き延びた。マユも良かったねと行ってくれる。お前さんは自分のご飯が心配だろうや。そしてそれで十分。ここにも愛があるのだ。
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厨房研究に使います。世界の人々の食事の価値を変えたいのです。