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自分ならではの感覚や、こだわりを表現してるもの

カバー写真は、先日友達と新橋で飲んだ時の帰り際。
ふとした瞬間で「いいな」と思った時にそういえばよく写真を撮ってるっけ。(これもnoteネタになりそうだ)

#週1note の記事を書くのはいつの間にやら4回目。

これまで書いてきた記事

これまで書いてきた記事は、自己紹介と自分のやりたいことを重ねて表現したもの。我ながらまとめ系が多くて味気ないなとは思っていた。

#週1note では、曜日ごとに担当が決まっていて、参加者全員が入ったグループでnote更新報告をしてる。
そこに加えて最近つくられたのが、好きなnoteをシェアするグループ。

僕が好きだなぁと思った #週1note はこちらの3つ。

この3つの記事の共通点は、自分の微細な感覚を言葉で表現しているところかな。自分ならではの感覚や、こだわりを表現してるものに心惹かれるようだ。

前置きが長くなったけど、今回は「自分ならではの感覚や、こだわりを表現してるもの」を書いてみようと思う。今週はたまたま自分の心と向き合うことが多かったので、そこで考えていたことをご紹介。

ワールドカフェの夕べ #57 「イキるタネと出会い直すには?」

仲良くしてもらってるWSDつながりなおんきさん&なむさん夫妻のワークショップということでお邪魔した。
言語好きなおんきさんによる「イキるタネ」という表現に心惹かれ。
ワールドカフェ(自分のテーブルでグループトーク、他のテーブルの話を聞きに行く、自分のテーブルに戻り話してきたことをシェア)を通して、自分の中のイキるタネに触れ、他者のイキるタネに触れ、タネがまかれていく。
ワークショップの最後に、
・「あなたにとってのイキるタネとは?」
・「イキるタネと出会い直すには?」
という2つの問いの答えをみんなの前で発表する。

Q. あなたにとってのイキるタネとは?
A. 心が動くもの、心が知っている
未知なもの、ワクワクするもの、心が動くものの中でも、選ぶものと選ばないものはある。こどもの頃から変わらずに選び続けているもの。頭で気づいてなくても、心は気づいているものって多いのかもしれない。こども向けワークショップを通じて、こどもの頃の感覚を思い出すことがあるけど、こどもの頃ってもっと自分の心と向き合っていることが多かった気がする。もっと心と対話していかねば。

Q. イキるタネと出会い直すには?
A. 今、何に心が動いてる?これまで、何に心が動いてきた?
今を通して過去をふりかえることで見えてくるもの。
父親を知らないためか幼い頃の夢だった「ウルトラマン」は、ヒーロー&男性という部分は父親を求めていたのかもしれない。「助けてくれる」「何でも出来る」ってイメージは、テクノロジー/デザイン/ビジネスなど様々な領域に手を出して、自分ができることを広げてきたことにつながるか。
母子家庭で育ってひとりの時間が長かったためか心惹かれたテレビゲーム。テレビゲームの中でもRPGが好きだったのは、非現実的な世界と成長がそこにあったからかもしれない。小学生の頃の夢「ゲームプログラマー」、社会人最初の仕事「ゲームプログラマー」、非現実と成長という点は今のワークショップデザイナーとしての活動にもつながる。

「イキるタネ」という言葉にするのが難しい質(パターン・ランゲージのような)を問いに使ってるのがいいなぁ。テーマ/問いを考える時に、ひとつの既存の言葉にまとめようとせずに、テーマに関連するキーワードを書き出して、それをひとつにまとめた言葉をつくるのはいいかもな。(パターン・ランゲージをつくる時のように。ブランディングやコピーライティングにも通じる。)

Tie WA 〜vol.2〜つながり

仲良くしてもらってるWSDつながりなみ・ぞりん&ゆきさんによる対話のワークショップ。み・ぞりん&ゆきさんペアのワークショップは一度体験してみたかったので参加した。

話に出ていたあれこれ。
「自分が素(す)をだせる相手は好きな人だけではない」「弱い自分を出せる場」「ペルソナが分厚い日本文化」「役割ではないつながり」「違和感の中でのつながり」「越境は同質性ではなく異質性を求めている」「仲間とは?」

自分が課題に思っているのは「弱い自分を出せる場」が少ないところ。昔からだけど、ディレクターとしてプロジェクト進行をしている時に、自分はなんでもできると思われて助けてもらえないことが多いけど、自分の弱みを出している他のディレクターはまわりから助けてもらうことでプロジェクトを進める。そして結果はあまり変わらなかったり。結果が変わらないのであれば、多くの関わりの中でことを進めれる方がいいんじゃないかって思う。

Facebook疲れの原因のひとつと言われる「ロールコンフリクト(役割葛藤)」。Facebookの中で様々な役割(家族、友人、職場、趣味ほか)が混在してしまい、発信する情報の見られ方をあれこれ考えて疲れてしまう。疲れること以上に自分を出すことを困難にしてしまうつながりは課題か。自分を出しやすい環境をどうつくるか。

み・ぞりん&ゆきさんによる対話の場は、グラウンドルールはなかったけど哲学対話と近かったな。緩やかに問いに対しての対話が続く。「知識ではなく、自分の経験にそくして話す」「意見が変わってもいい」といったルールはあっても良かったのかも。

第9回 代官山人文カフェ:梶谷真司「誰もが知っている名作絵本をめぐって哲学対話を体験しよう」

アートの対話型鑑賞という対話のワークショップを扱っていて、哲学対話に関心があり、来月は絵本を扱ったワークショップが控えているので体験してみる。

流れ:絵本の読み聞かせ(狼と七匹の子山羊)→絵本で疑問に思った点を挙げる→疑問からインスピレーションを受けて思い浮かんだ問いを挙げる(絵本の解釈を深めるもの以外)→問いに投票をする→問いを決めて問いについて対話

うちのグループで問いとして扱ったのは
「見て見ぬふりはどこまで許されるのか?」
たしか絵本のお話の中で、狼の手を白くするために粉屋のおじさんが協力してしまっていて、あれは犯罪を見て見ぬふりしてしまったのでは?というところから出てきた問い。

落とし物、道端で寝ている酔っぱらい、電車の中の妊婦や高齢者といった日常でよくある光景や、家庭や職場での問題。
ネガティブな課題以外にも、ポジティブなものとして、街なかで見かけたお洒落な人に声をかけるか?レストランで料理が美味しかった時にお店の人にそのことを伝えるか?って話が出ていた。

自分が体験したことのあるものには、手を出しやすい。落とし物を拾ってもらったことがあれば、他者の落とし物も拾いやすい。
自分に起きる可能性のあるリスクが少なければ、手を出しやすい。意外と心配していることって起きないのかもしれない。
一歩踏み出すことで相手も自分もハッピーになれることって世の中多いのかもしれない。(最近、「シャツがお洒落ですね」って街なかの人に声をかけられて嬉しかった)
人として許すことができない出来事は見て見ぬふりをすることはできない。
命が失われる可能性のある現場は見て見ぬふりをすることはできない。

「誰でも知っている名作絵本」を使うことで、自分が知っているものを再解釈できるのはおもしろいなぁ。まとめなくても、わからなくなってもいい場っていいな。

noteを書きながら聴いてた曲:馬喰町バンド「メテオ」


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