極上のサスペンスという娯楽性と、現在の世界に対する興味深い批評性 〜 映画『手紙は憶えている』〜



 いま、世界中から注目を集めているカナダの映画監督といえばグザヴィエ・ドランだろう。2014年の傑作『Mommy/マミー』をはじめ、これまで作ってきた作品すべてが印象的かつ衝撃的で、私たちの心を掴んで離さないエモーションも多分に込められている。そんなドランの映画に、多くの人々が夢中になるのも無理はない。
 とはいえ、カナダにはもうひとり素晴らしい映画監督がいる。アトム・エゴヤンだ。エジプトで生まれ、3歳の頃カナダに移住してきたエゴヤンは、良質な作品をたくさん残してきた。特に1990年代のエゴヤンは、その姿を見るのにサングラスが必要なほど眩い輝きを放っていた。『エキゾチカ』『スウィート ヒアアフター』『フェリシアの旅』など、エゴヤンを語るうえで欠かせない作品が作られたのもこの頃だ。
 だが、2010年代に入ってからのエゴヤンは、どこかピリッとしない凡作しか作らなくなってしまった。集団ヒステリーの恐ろしさに着目した『デビルズ・ノット』はまだしも、ライアン・レイノルズを主演に迎えた『白い沈黙』は、随所で見られる面白さを八つ裂きにする退屈なシーンで埋めつくされていた。美しい雪景色の撮り方は秀逸だと思うが、それも『スウィート ヒアアフター』の要素を何倍にも薄めたようにしか見えなかった。もはやエゴヤンに期待をするのはやめたほうがいいのか?そんな疑念が筆者の頭をよぎった。


 しかしそうした疑念は、エゴヤンの最新作『手紙は憶えている』を観てキレイに消え去った。ホロコーストを題材にしたこの映画でエゴヤンは、極上のサスペンスという娯楽性と、現在の世界に対する興味深い批評性を表現してみせたのだ。
 本作の物語は、90歳のゼヴを中心に展開される。簡単に説明すると次のようなものだ。妻の死も覚えられないほど認知症が進んでしまったゼヴ(クリストファー・プラマー)は、ある日友人のマックス(マーティン・ランドー)から使命をあたえられる。その使命とは、自分たちの家族を殺した者への復讐だった。アウシュヴィッツ収容所の生存者であるゼヴとマックスは、70年前に家族をナチス兵に殺された。しかもなんとその兵士は、ルディ・コランダーなる偽名を使い今も生存しているというのだ。そんな兵士をマックスは許せなかったが、体が不自由なため復讐を遂行できない。そこでマックスは、代わりに遂行してほしいとゼヴにお願いをする。この願いを受けたゼヴは、マックスが詳細を記した手紙と共に、 ルディ・コランダーを探す旅へ出るのだった。


 こうした内容からもわかるように、本作は犯人探しをメインとした作品である。観客も基本的には、“記憶を維持することも難しいゼヴはルディ・コランダーを見つけることができるのか?” という緊張感を通して作品に没入する。
 ところが本作、ゼヴがジョン・コランダー(ディーン・ノリス)と邂逅するあたりから、胸をぎゅっと締めつける不気味な空気が際立っていく。犯人探しのスリル以上に、記憶が曖昧になる怖さと、そのこと自体が人類全体の罪かもしれないという事実を突きつけられるのだ。こうして突きつけられたときに初めて、本作はただの映画ではなく、人間が起こした惨劇を巡る作品であることに気づく。


 ラストでゼヴが見せる引きつった表情に、観客たちは何を見るのだろうか。真実を知ったゼヴの絶望か? あるいは謎が解けたことで得られる映画的カタルシスか? それとも...。筆者はあの引きつった表情を見たとき、“絶対に忘れるな。お前もこの男(ゼヴ)と同じ目に遭うかもしれない” と、誰かに鋭く睨まれたような気がした。この “誰か” は誰なのか? それはいまもわからない。ただ、確実に言えることがひとつある。あの鋭い睨みは、ナチスに通じる排外主義や人種差別が目立つようになった今の世界を射貫くものであるということだ。

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