生活はあるのに、社会がない



 ある日、数少ない友人と話していたときのこと。その友人はぽつりと、こう呟いた。

「私、社会が見えてこない生活の歌って苦手なんだよね」

 これには筆者も同意できるため、互いにあれやこれやと曲を挙げながら楽しく過ごした。
 とりわけ盛りあがったのは、星野源の“恋”について話したときだ。〈ただ腹を空かせて 君の元へ帰るんだ〉と歌われるこの曲は、どこかの街で暮らす2人を描いている。その詩情はなかなかのもので、人気アーティストと呼ばれるにふさわしいクオリティーだ。
 しかし一方で、2人が生活しているはずの背景、つまり社会が見えないことに、どうしても目が行ってしまう。一応、歌の冒頭では〈風たちは運ぶわ カラスと人々の群れ〉と歌われるなど、2人以外の描写もなくはない。だが、それだけだ。他のくだりは2人のことに関する言葉がほとんどで、筆者からすると、その世界観は箱庭的な狭っくるしさを感じさせる。

 なぜこういう歌が苦手なのかといえば、自分以外の他者が漂白されているように見えるからだ。当然ながら、社会は自分の周囲だけで構成されるものではない。生活にはさまざまな他者が間接的に、あるいは直接的に関わっているのが常であり、そうした場を私たちは社会と呼ぶ。たとえば、どこかで楽しく買い物をするにしても、その行動は商品を売るお店や、そこで働く不機嫌そうなアルバイト店員がいなければ成立しない。自販機であたりまえのようにジュースを買えるのも、ジュースを補充してくれる業者がいるからだ。
 このように生活とは、多くの他者が行き交う社会の中で成り立っている。だからこそ、生活を歌えば、自然と社会の匂いも立ち込めてくるはずなのだ。嬉しい気持ちを描いたとしても、その裏に存在する哀しみを抱えた人たちの姿がどうしても滲んでしまう。そういう生活の歌に筆者は惹かれる。

 特に大好きなのは、イギリスのラッパー、ザ・ストリーツによる“It Was Supposed To Be So Easy”だ。2004年のアルバム、『A Grand Don't Come For Free』に収録されたこの歌は冒頭で、次のような一節が紡がれる。

〈今日やること DVDをレンタル屋に返す 銀行で金をおろす 母ちゃんに夕飯を食べに行けないよと電話する それから貯めた金を持って 待ち合わせ場所に走るんだ〉

 ところが、その予定はなかなか消化されない。家にディスクを忘れたためDVDは返却できず、残高不足で銀行からお金をおろすこともできなかった。母ちゃんへの電話は携帯の電池切れで叶わず、テレビの横の戸棚に入れといたはずの貯めた1000ポンドもなくし、ジ・エンド。結局、予定はひとつも達成できずに終わる。そうした不運な男の1日を描いたのが“It Was Supposed To Be So Easy”だ。
 この歌でもっとも惹かれた一節を挙げるとすれば、以下のものになるだろう。

〈ようやくATMにたどり着くと そこは長蛇の列 おばさんが何時間もかけて戦っている 秒単位で怒りのゲージが上がっていく俺 自分の給料を引き出すのに一体何時間かけてんだよ?〉

 一見すると、お金をおろせないせいで、イライラが募る男の様子を描いているだけにも読める。だが、2004年のイギリスをふまえると、社会的背景が反映されていることに気づく。
 当時イギリスは、いまも盛んに議論されている経済格差の問題が浮き彫りになっていた。低所得と高所得の職種が増える一方で、中所得の職種は減少するなど、賃金も二極化しつつあった。“It Was Supposed To Be So Easy”の主人公は、ATMで50ポンドのボタンを押して残高不足が表示されるような男だ。お世辞にも楽な生活とは言えず、賃金の低い仕事で生活を支えているのがうかがえる。もっと言えば、おばさんだって少しでも早くお金が欲しいほど生活は困窮しており、そのせいで何時間もATMと格闘したのかもしれない。そうした悲哀を表現するこの曲は、社会の中で脈打つ生活の様子を描いた名曲だ。

 生活と社会を結びつけたポップ・ミュージックは、私たちが見つめるべき問題に気づかせることができる。それをきっかけに、人々の意識が変わり、世界も変わることだってある。ショートケーキに乗せられた一粒の苺みたいに、人生の飾りでしかないポップ・ミュージックばかりというのも、あくびが出るほど退屈だ。







おまけ

※ : 筆者にとって、生活と社会を結びつけたポップ・ミュージックだと感じられる曲のプレイリストです。ここまで読んでくれたあなたへのささやかなプレゼント。


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