映画『アス』が浮き彫りにする「私たち」の闇



 映画『アス』は、前作『ゲット・アウト』で人種差別を鋭い視点から描いたジョーダン・ピール監督の最新作だ。
 本作は1986年、両親と訪れた行楽地にあるミラーハウスに迷いこんだ幼少期のアデレード(ルピタ・ニョンゴ/幼少期 : マディソン・カリー)の姿から始まる。そのミラーハウスでアデレードは、自分とそっくりな少女に遭遇したことがトラウマとなり、失語症になってしまう。

 それから時が経ち、アデレードは4人家族の母親となった。失語症も克服し、幸せな生活を送っている。ある日4人は、サンタクルーズにあるビーチハウスへ足を運ぶ。1986年にアデレードが訪れた行楽地である。到着後、4人は海に出かけた。そこで息子のジェイソン(エヴァン・アレックス)は、腕から血を流す不気味な男を見かける。
 その後4人はビーチハウスに戻った。夜も深まり、あとは寝るだけだ。しかしそこへ、怪しい4人組が訪れる。玄関先に立っているだけで、微動だにしない。夫のガブリエル(ウィンストン・デューク)がバットを持って近づくと、4人組はビーチハウスに押し入ろうとした。4人はそれを阻止しようとするが、侵入されてしまう。4人組の姿を見た4人は、驚きを隠せなかった。4人組は自分たちと瓜二つのドッペルゲンガーだったからだ。こうして4人は、ドッペルゲンガーから逃れるため奮闘することになる。

 このような物語に、ジョーダン・ピールは現実世界の出来事を反映させている。たとえば、劇中で大勢のドッペルゲンガーが手を繋いで佇むシーンは、1986年5月25日にアメリカでおこなわれた慈善イヴェント『ハンズ・アクロス・アメリカ』がモチーフだ。オノ・ヨーコやショーン・レノンも参加したそれは、アメリカのホームレス支援や貧困問題に取りくむ人たちを援助する目的でおこなわれた。
 1980年代のアメリカといえば、当時のレーガン政権が富裕層に有利な税制を敷き、福祉予算の削減も進めたことで、いまも議論されている貧富の格差がもたらされた時期でもある。その状況に、経済活動からも排除された層を指すアンダークラスという概念を通して向きあったのが、社会学者のウィリアム・J.ウィルソンだ。1987年に発表した著書『The Truly Disadvantaged: The Inner City, the Underclass, and Public Policy』でウィルソンは、インナーシティーにおける黒人ゲットーの増加といったアメリカの諸問題に対し、階級の観点から社会政策をおこなうべきだと提言した。人種を問わず、不利な立場に置かれた人たち全員が立ち直れる制度や仕組みを作るという視座である。

 本作でのジョーダン・ピールは、ウィルソンと似た階級の観点を示している。それは4人組を含めたドッペルゲンガーたちの背景からもわかることだ。劇中でも明かされるように、ドッペルゲンガーたちはアメリカ政府によって作られた。地下世界で育ったドッペルゲンガーたちの自我は崩壊し、ゾンビの如く歩きまわるだけの存在に成り果てている。そのような仕打ちをした地上の人間に復讐するため、ドッペルゲンガーたちは地上に出てきたのだ。こうした設定に、下流にすら組みこまれず、隠されてきた階層であるアンダークラスの表象を見いだすのは容易い。
 本作の〝地上 対 地下〟という構図は、アメリカの政治家アレクサンドリア・オカシオ=コルテスの視点とも重なる。彼女は2018年のドキュメンタリー映画『レボリューション 米国議会に挑んだ女性たち』において、貧富格差が進むアメリカの現況を「上流 対 下流」と表現しているからだ。いま起きているのは左派と右派の戦いというより、富める者と貧しい者の戦い。オカシオ=コルテスはそう見ている。

 階級の要素が前面に出たのは、カニエ・ウェストの影響も少なからずあるかもしれない。かつてジョーダン・ピールは、トランプ支持のカニエを揶揄するツイートをしている。『ゲット・アウト』に出てくる〈the sunken place〉というセリフをカニエが引用したことから、「映画から影響を受けたんだね。『ゲット・アウト 2』の脚本を書きはじめたよ」と皮肉ったのだ。差別意識を隠さないトランプと、人種差別がテーマの『ゲット・アウト』をかけた高度なジョークである。さらに後日、カニエはTMZのインタヴューで「奴隷制は黒人が選択した」と発言し、やはり多くの批判に晒された。なかでもラッパーのスヌープ・ドッグは、白人に加工されたカニエの画像をインスタグラムにアップするなど、かなり痛烈だった。
 ジョーダン・ピールがカニエを揶揄したのは、2018年4月だ。2018年2月時点で新たな脚本を執筆中と報じられ、それを元にした作品のタイトルが『アス』に決まったのは同年5月。そして主要撮影は同年7月から始まった。スケジュール的にも、カニエの言動が新たなインスピレーションになった可能性もなくはない。もちろん、脚本を執筆する段階で〝階級〟を盛り込もうと考えていた可能性もある。だが筆者は、その考えを強固なものにするきっかけのひとつに、カニエの言動もあったのでは?と想像してしまう。観客を戦慄させる幕引きのみならず、裕福な黒人の4人家族がドッペルゲンガーのターゲットになる展開もふまえると、なおさらだ。たとえ黒人であっても、底辺の人たちを踏みにじったうえでの栄華に生きているのであれば、一度足元を見つめたほうがいい。本作はそうした警告にも思える。

 一方で、本作には『ゲット・アウト』的な人種の観点も見られる。特に目を引くのは、白人のタイラー家をドッペルゲンガーが襲うシーンだ。息も絶え絶えなキティ・タイラー(エリザベス・モス)は、アレクサみたいなデバイスに警察へ通報してと命令する。ところが、曲名と勘違いしたデバイスはN.W.Aの“Fuck Tha Police”を流してしまう。最終的にキティは命を落とし、当然ながら警察は現れなかった。
 この描写は、ジョーダン・ピールなりのブラック・ジョークだろう。ジョーダン・エドワーズやマイケル・ブラウンなど、いまもアメリカでは白人警官に黒人が射殺される事件が後を絶たない。事件のほとんどは理不尽な状況で起こり、それに対する怒りのデモがおこなわれることもある。そのような現在をキティのシーンは暗喩している。黒人どころか、白人が襲われていても駆けつけないという形で。まさにFuck Tha Police(警察クソ食らえ)である。こうした文脈が活きるのも、黒人のジョーダン・ピールによって撮影されたからなのは言うまでもない。
 ちなみに、〈黒人警官はお前を白人警官に突きだす(Black police showimg out for the white cop)〉という一節もある“Fuck Tha Police”は、警察組織そのものの在り方に抗議するヒップホップ・クラシックだ。そんな曲を、人種よりも立場や階級への問題意識が強い本作で使用している。偶然にしてはあまりにも出来すぎと思うのは、筆者だけだろうか?

 『Us』という原題の本作は、『ゲット・アウト』以上にアメリカ(US)の複雑な闇に切り込む野心と勇気で満ちあふれる傑作だ。しかし、その内容は日本に住む者たちも無関係ではない。日本にもアンダークラスはいるのだから。
 〝Us〟は〝私たち〟という意味合いもある言葉だ。この〝私たち〟には、筆者やあなたも含まれている。うかうかしていると、あなたもドッペルゲンガーに襲われるかもしれない。筆者だってそうだ(どちらかといえば、ドッペルゲンガーたちに近い立場と自認しているが)。こうなる前に出来ることはあるんじゃないかと、本作は〝私たち〟に問いかける。



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