観客の姿勢を問う痛烈さ 〜映画『恋人たち』を観て〜

 橋口亮輔の『恋人たち』を初めて観たとき、涙が止まらなかった。小粒の涙がひとつひとつゆっくり流れ、そのたびに複雑な感情が心の奥底から沸きあがる。

 通り魔に妻の命を奪われた男、姑や夫との関係がうまくいっていない主婦、同性の恋人に対して威圧的に接してしまう弁護士。『恋人たち』に登場する人物たちは、何かしらの喪失を抱えている。そんな喪失から抜けだし、歩みを進めるまでの物語を、『恋人たち』は描く。

 まずは、通り魔に妻の命を奪われた男、篠塚アツシについて。橋梁点検の仕事をしている篠原は、日々の暮らしを維持するので精一杯の立場にある。健康保険料もまともに払えず、病院の医者には保険料が払えないことを責められる。その言葉を受けて篠原は、保険証をもらうため役所へ向かう。しかしそこでも彼は、冷淡な扱いを受けてしまう。自らの境遇を吐露することで、やっと保険証を手に入れるが、有効期限はたったの1週間。そうした無慈悲な対応を受けても、篠原はなんとか怒りを堪え、役所をあとにする。その後も篠原は、さまざまな困難にぶつかる。妻のために裁判を起こそうと弁護士事務所に相談したら、自らのキャリアが傷つくという旨の理由で断られ、その弁護士を紹介した先輩には、無責任な言葉を投げつけられてしまう。そんな積み重ねの末、篠原は自殺を試みる。だが、それも失敗に終わる。篠原には死ぬ勇気がなかったのだ。生きるにはあまりに辛く、かといって死ぬ勇気もない。そんな袋小路な状況に追い込まれていく篠原を見ていると、胸がギュッと締めつけられ、苦しくなってくる。

 篠原の姿を見て、まっさきに連想したのが、ドラマ『相棒 season9』の第8話「ボーダーライン」に登場する柴田だ。柴田は、勤め先で不当な扱いを受けて無職になり、それが原因で婚約者に捨てられてしまう。行政にも冷たくされ、ネットカフェで寝泊まりするようになる。おまけに犯罪にも手を染め、最後は“とある一言”がキッカケで自殺してしまう。こうした貧困の現実をドラマで巧みに表現したことが評価され、「ボーダーライン」は2011年度の貧困ジャーナリズム大賞に輝いている。このような日本の社会問題の一角が、『恋人たち』の背後には存在する。その象徴と言えるのが、篠塚アツシという男の物語だろう。

 姑や夫との関係がうまくいっていない主婦の名は、瞳子という。夫と姑と3人で郊外に暮らしている。皇族の追っかけという趣味を持ち、小説や漫画を描いたりもする。瞳子のシーンで特に印象的なのは、夫とのセックス・シーンだろう。序盤で登場するこのシーンは、どこか暗淡とする空気を漂わせ、色気もまったくない。寂しさや哀しみといった感情もなく、機械的に情事をおこなう様子が強調されている。このシーンによって観客は、瞳子が抱える空っぽな心を即座に理解する。『恋人たち』は、派手な演出が一切なく、会話も軽快とは言えない。だが、ひとつひとつの言葉を丁寧に吐きだすことによって、言葉の多さに頼らないで情感を観客に伝えている。こうした側面を代表するのが、瞳子のセックス・シーンだと思う。

 同性の恋人に対して威圧的に接してしまう弁護士は、四ノ宮という男だ。いわゆるエリートであり、恋人とは高級マンションで一緒に暮らしている。しかし、そんな四ノ宮にも、思わぬ災難が降りかかる。学生時代からずっと想いを寄せている男友だちと、誤解が元で離別を余儀なくされてしまうのだ。とはいえ、四ノ宮には感情移入できないという人は、少なくないだろう。実は、篠塚の切実な願いを冷たくあしらう弁護士というのが、四ノ宮だからだ。それでも筆者は、四ノ宮の哀しみにコミットしてしまう。男友だちとの電話で聞ける独白には、どうしても憎めないナニカがある。かつて、写真家の渡辺克巳は、「インタビューをしていると、悪い奴はいねえというのがあってさ、哀しい奴はいるな、とそういう気がするね」(『流行写真』1985年8月号より)と語ったが、四ノ宮はその「哀しい奴」のように思える。

 『恋人たち』の興味深い点のひとつは、登場人物がお世辞にも完璧とは言えないところだ。エリートの四ノ宮にしたって、ひとつの別れで狼狽してしまうし、篠原は先に書いたように、悶々として袋小路にハマる。そして瞳子は、パート先にやってきた男の元に勢いよく走ったものの、その男はドラッグ中毒者で、最終的には夫の元に戻るという半端な結果に終わってしまう。しかし、そうした弱さや逡巡をまっすぐ描いたからこそ、『恋人たち』は2010年代を代表する映画になったのだ。

 先述したように、『恋人たち』という映画は、日本が抱える問題を切りとった作品である。“原発” や “左翼”、さらに“皇族”といった要素も孕んでいる点は、“日本の歴史”という観点から作品を読みとる導線になりえるだろう。だが『恋人たち』は、そうした問題を前面に出すのではなく、登場人物たちの一背景として扱う。

 そんな『恋人たち』が伝えたいこと。それは、“大きな出来事”という巨大な風呂敷の影に隠されてしまう“小さな物語”こそ、“大きな出来事”にとって重要なのだということではないか? 本稿を書いている最中、朝日新聞デジタル編集部記者の丹治吉順氏によるツイートが流れてきた。それが本稿と共振する内容だと思うので、以下に引用しておく。

「選挙や株価、ノーベル賞やオリンピックなど、「重要だ」という価値観が共有されているテーマは、メディアで大きく扱われるし、人々も反応する。問題は価値観が共有されていないテーマ。切実に困っている少数派の声は、全く困っていない多数派には少しも響かない。価値観の共有こそが最も困難な作業」

 『恋人たち』が試みているのは、その「最も困難な作業」なのかもしれない。重要視されているテーマを巡る議論や動きのなかで、多くの人に見逃されてしまう大事なこと。それを『恋人たち』は伝えようとしているのではないか。そういった意味で『恋人たち』は、観客の姿勢を問う痛烈な作品だと言える。筆者が流した涙は、切実な声を見逃してきた罪悪感から生まれたのかもしれない。

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