CLC(씨엘씨)「No.1」



 CLC“No”のMVを観て、筆者は笑いが止まらなかった。薔薇を燃やすシーンがあったからだ。このシーンで思いだしたのは、IZ*ONEのデビュー曲である“La Vie en Rose”。もともとこれはCLCに提供されるはずだったが、大人の事情でIZ*ONEのデビュー曲になったという経緯がある。CLC曰く、事実を知ったのはレコーディング終了後で、一応イェウンは「よくあることだ」と、大人の対応を見せている。しかし心の奥底では、悔しさを抱えていたのではないか? だからこそ“No”のMVで薔薇(Rose)を燃やし、その悔しさを過去の彼方へ葬り去ったのかもしれない。

 そんなMVを視聴後に、“No”も収録された8枚目のミニ・アルバム「No.1」を聴いた。映像はないが、やはり“No”のインパクトはすさまじい。特に耳を引いたのは、ジュニア・ヴァスケスやジョナサン・ピーターズあたりのハード・ハウスに通じる、ゴツゴツとしたキックとダークなシンセ・ベースだ。アップリフティングなシンセ・リフが鳴り響くサビこそEDM以降の流れを取りいれたド派手エレ・ポップに変貌するものの、それ以外は90年代前半のNYハウス・シーンの一部が脳裏に浮かぶサウンドがほとんどである。だからといって、ノスタルジーで溢れているわけではない。EDM以降のモダンなセンスと組みあわせることで、ただの懐古趣味になることを回避しているからだ。

 そうしたサウンドに乗る歌詞もおもしろい。〈Red lip NO Earrings NO〉といった具合に次々とレッテルを剥がしていくのだが、その鋭い反骨心は愛嬌やセクシーさにも向けられるのだ。さらには、誰かのために自分を変えないこと、そしてそんな自分を輝いていると力強く断言してみせる。こうして“No”の歌詞に耳を傾けると、MVにおける私怨的なイメージが邪魔に感じてしまうほど、さまざまな固定観念に苦しめられている人々を鼓舞する歌なのがわかるはずだ。

 “No”の歌詞は、韓国の社会状況をふまえるとさらに深度が増す。バズフィードのレイチェル・クリシュナも言うように、2015年に韓国でMERSコロナウイルスが流行した際、女性蔑視的な噂が流れ、それに過激な女性グループが対抗するということがあった。その動きは、2016年に起こった江南通り魔殺人事件をきっかけに加速した。犯行理由に強い女性差別がうかがえるヘイトクライムだったため、性差別に関する議論が巻き起こったのだ。

 そうして生まれた熱(トランスジェンダーに差別的なハン・ソヒなどは、狂気を帯びた“熱狂”に思えるが)は、いまも続いている。たとえば、2018年にRed Velvetのアイリーンは、韓国のフェミニズム小説として日本でも話題の『82年生まれ、キム・ジヨン』を読んだと発言し、それに過剰反応した男性ファンたちから批判された。興味深いのは、この出来事に注目したサウスチャイナ・モーニング・ポストの記事である。批判に対するアイリーンのコメントにも言及したその記事は、アイリーンのフェミニストアイコンとしての可能性を考察しているのだ。

 くわえてガーディアンは、近年韓国の女性たちの間で化粧品離れが進んでいると伝えた。この事象を先述したMERSコロナウイルスに関するデマ以降の流れに位置づけ、化粧品以外にお金を費やすようになった女性たちに取材したものだ。記事に登場する中央大学校のイ・ナヨン教授によれば、化粧品のみならず服装にも変化が起きているという。

 このような韓国の現状をふまえたうえで、“No”の歌詞の一節を見てほしい。

〈Red lip NO Earrings NO Highheels NO Handbag NO(紅唇 NO 耳飾り NO ハイヒール NO ハンドバッグ NO)〉
〈구두 NO 향수 NO 가방 NO 화장 NO 청순 NO 섹시 NO 애교 NO 착한 척(靴 NO 香水 NO バッグ NO 化粧 NO 清純 NO セクシー NO ぶりっこ NO おとなしいふり)〉

 まるでガーディアンの記事に登場する女性たちのように感じるのは、筆者だけだろうか? しかも、〈하고 싶음 해봐(やりたいならやってみて)〉や〈싫으면 말고(嫌ならやめて)〉といったフレーズを盛りこむことで、化粧やお洒落自体を否定するのではなく、自分の意志でそれをしたいと思っているかが大事というメッセージを伝える巧妙さも光る。これなら歌詞の一部分が切りとられ、過激派のレッテルを貼られたとしても、歌詞を全部読んでほしいという真っ当な反論ができるだろう。作詞はイェウンと(G)I-DLEのソヨンとのことだが、なんとも素晴らしい言葉を紡いでいる。

 昨年、同じ事務所(CUBEエンターテインメント)から(G)I-DLEという後輩の女性グループがデビューし、CLCは末っ子を卒業した。だから「No.1」は逞しさをアピールする内容になるだろうという想像はなんとなくしていた。しかし、そんな筆者の陳腐な想像を「No.1」は軽々と越えていく。あらゆる押しつけに抵抗する姿勢を見せ、それこそ〝No〟とシンプルに、しかし誰よりも力強くハッキリと声を張りあげるのだから。これは逞しさといった抽象度の高いものではなく、戦いと形容すべきものかもしれない。それでいて、ロドニー・ジャーキンスあたりの90年代R&Bを想起させるコーラス・ワークが映える“Breakdown”では艶やかな歌声が響きわたるなど、押しの強さだけではない多彩さも際立たせることで、楽しませるというミッションも完璧に遂行している。日本の場合、商業性とメッセージ性はトレードオフのように見られがちだが、「No.1」を聴くとそんな考えは実に愚かだと痛感する。



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