この世に命を繫ぎ止めるための言葉 〜 映画『心のカルテ』〜



 アン・セクストンという詩人がいる。1974年に自らこの世を去ったセクストンは、シルヴィア・プラスと共に告白詩のムーヴメントを作ったことで有名だ。
 セクストンは不安定な精神との戦いを余儀なくされ、死の間際まで入退院を繰り返した。そのなかで綴られた詩を読むと、セクストンの詩は“生と死”を行き来していることがわかる。たとえば「Snow」という詩では、〈希望がある いたるところに希望がある〉と前向きな言葉を紡いでいるが、「Baby」という詩では、〈死よ おまえは天使のように パンのこね粉のように重く 私の腕にある〉と綴り、己の中にある死の予兆と向き合っている。こうしたセクストンの詩群から感じるのは、自らの不安定な精神をなんとかこの世にとどめるため、詩を生み出してきたのではないか?ということ。だからこそ、セクストンの詩は内面を深く見つめた内省的言葉が多く、ヒリヒリとした緊張感と痛みを漂わせる。セクストンにとって詩を書くことは、自身の体を切り開き、心を解体し、それでも残ったナニカを見つめる行為だったのかもしれない。


 そんなセクストンの詩を劇中で引用するのが、ネットフリックスで配信中の映画『心のカルテ』だ。本作の主人公は、摂食障害を抱えた20歳の女性エレン(リリー・コリンズ)である。いくつものリハビリプログラムを試みるも、症状が改善されないエレンは、若者のためのグループホームへ行くことになる。そこで待っていたのは、エレンと同様に問題を抱える若者たちと、その若者たちをサポートする医師のベッカム(キアヌ・リーブス)。そこでの生活に戸惑いを抱きながらも、エレンは着実に変化していく。
 その変化が本作の軸となっているが、そこにはさまざまな感情の揺らぎが見られる。仲間たちと楽しく過ごし、ルーク(アレックス・シャープ)との食事ではジョークを飛ばし合うなど、幸せな時間がある一方で、そうしたキレイな部分だけじゃないのが本作だ。エレンの心に潜む弱さや脆さにも焦点を当て、それを私たちに突きつける。その象徴とも言えるのは、エレンが実の母に哺乳瓶でミルクをあたえられるシーンだろう。このシーンには、過去に囚われ死が忍び寄るエレンの心を表現し、ゆえに重苦しい雰囲気を醸している。


 だが、そうした苦しみを経てエレンは、継母と妹の所へ行き、グループホームに戻る。ここで本作の物語は幕を閉じるため、エレンの症状が改善し、幸せな日々を送ることができるようになったのか、私たちは知ることができない。こうした本作は、お涙ちょうだいの感動物語を求める人たちからすれば、到底受け入れがたい作品だと思う。言ってしまえば、この世界は不公平であり、そこで私たちは生きていくしかないという現実を突きつけるのが本作なのだから。
 とはいえ、そんな世界にも希望はあると示すのを忘れないのが、本作の良いところだ。グループホームに戻るとエレンに決意させたのは、エレンに投げかけられた多くの言葉たちだった。劇中ではそれが、フラッシュバックのような演出で表現されているが、この演出に筆者は、他者との関わりが救いになるというメッセージを見いだした。あえてエレンを突き放すベッカムの言動など、一見本作は自己責任論を振りかざす暴力性も見られるが、それもエレンに他者と関わることの大切さを教えるためだとしたらどうだろう。そこにあるのは、エレンを信じる愛情であり、もっといえば他者に対する信頼ではないだろうか。この愛情と信頼があるからこそ、本作はギリギリのところで自己責任論の暴力性を回避できている。かつてセクストンは、〈言葉と卵は注意して扱わなければならない ひとたび壊れたら 取りかえしのつかぬものたちだから〉(「Words」)と綴っているが、この詩が訴える繊細さや思いやりの大切さは、本作にも受け継がれている。


 ちなみに、本作で引用されるセクストンの詩は「Courage(勇気)」という。この詩では、次のような言葉が紡がれている。

〈それはささいなことの中にある 赤ん坊の第一歩は大地を揺るがす 初めて自転車に乗って道路を走った時 初めてお仕置きされて心細かった時 弱虫 貧乏 デブ イカれてると言われ疎外された時 あなたはその毒をのみ込んだ いつか爆弾や銃弾による死が訪れても あなたは国旗など振らず帽子を胸に当てるだけ あなたは心の弱さを甘やかさなかった のみ込み続けた石炭は勇気だ〉

 この詩には、自分の弱さを受け入れることこそ、本当の強さというメッセージが込められている。弱さを隠したり、ごまかしたりせず、それも自分の一部と認めて肯定すること。心の弱さを甘やかさないとは、そういうことなのではないか。こうした想いが込められた本作に助けられる人は、少なくないはずだ。

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