Kate Tempest『The Book Of Traps And Lessons』



 ケイト・テンペストは、ラッパーや詩人など多くの顔を持つイギリスのアーティストだ。彼女の歩みを振りかえると、ミクロからマクロの視点に移行する歴史であることがわかる。
 まずは2014年のファースト・アルバム『Everybody Down』だ。この作品は、高騰する都市部の家賃に苦しみながらも、そこで生きる若者たちの心情を描く。家族にはまっとうな会社で働いていると嘘をつくドラッグ・ディーラーの男など、さまざまなキャラクターが登場する群青劇だ。その描写力は高く評価され、2014年のマーキュリー・プライズにノミネートという栄誉も得た。

 『Everybody Down』から2年後にリリースされた『Let Them Eat Chaos』では、無慈悲な暴力が横行する世界の現況を嘆いた。2015年のパリ同時多発テロ事件直後に公開された“Europe Is Lost”など、切実な叫びに心が締めつけられる。ピーター・ケナードが提供したコラージュを使用したアートワークも強烈だった。彼がこれまで発してきた、反戦、人権問題、過剰な消費主義に関するメッセージが込められている。そんな『Let Them Eat Chaos』は、都市で生きる〝私〟だけでなく、世界で生きる〝私たち〟の問題にも足を踏みこんだ傑作だ。

〈ヨーロッパは迷った アメリカも迷った ロンドンも迷った それでもまだ私たちは勝利の雄叫びをあげる〉〈私たちは歴史から何も学ぶことができないのか〉(“Europe Is Lost”)

 その傑作に続くサード・アルバム、『The Book Of Traps And Lessons』を聴いている。これまでのアルバムがそうだったように、本作もダン・キャリーと二人三脚で制作された。エグゼクティヴ・プロデューサーのリック・ルービンや、今年5月にリリースのシングル「Voyage/Teleport」も素晴らしかったヒナコ・オオモリなど、多彩な制作陣が光る。そういう意味では以前よりも外の空気が多い作品と言えるだろう。

 だが、本作の言葉は彼女の日常に近いものが目立つ。それを示すかのように、ジャケットではイギリスの地形図が使われている。たとえば、“Firesmoke”で登場するルイシャムとは、彼女が育ったサウス・ロンドンにある街の名前だ。全体としても個人を描いたような歌詞が多く、内省的な雰囲気が漂うこともある。
 一方で、イギリスも含めた世界的なテーマにも言及している。人種差別と排外主義がテーマの“Brown Eyed Man”などは、その側面を象徴する曲だ。さらに、“All Humans Too Late”では人種差別主義者が跋扈する世界を憂いている。そこに漂う悲観的情動は、〈人類はすべてを破壊するんだから(man kills everything)〉と歌ったマニック・ストリート・プリーチャーズの“Faster”を連想させるほど陰鬱だ。

 とはいえ、本作は自己憐憫に陥るような作品ではない。ラストに“People's Faces”を収録していることからも、それは明らかだ。2017年のグラストンベリー・フェスティバルにおけるライヴでも披露されたこの曲は、〈それは過ぎ去り 私の国はバラバラになっている(It’s coming to pass, my countries coming apart)〉という一節から始まる。歌詞の内容から察するに、〈それ〉は2016年の国民投票で決まったブレグジットのことだ。そして、家賃の高騰や低賃金に苦しむ人たちの描写は、貧困層の拡大にも繋がっている緊縮財政への批判を滲ませる。このように、“People's Faces”はさまざまな苦難に見舞われるイギリスの現在を描いた曲だ。
 しかし、そうした苦難を見つめながらも、彼女は希望を忘れない。〈人々の顔にはたくさんの平和がある(There is so much peace to be found in people’s faces)〉〈私は人々の顔が好きだ(I love people’s faces)〉といったフレーズを紡ぎ、人という生き物の可能性を愚直に信じているからだ。だからこそ、彼女は切実な想いが込められた言葉を紡ぎ、それを祈りに近いラップで吐きだす。

 言葉といえば、本作は文字どおり言葉のアルバムである。『Everybody Down』ではスレンテンのリズムに乗せて韻を踏むなど、過去作は彼女の言葉を活かしつつも、あくまでポップ・アルバムであろうとしていた。だが本作は、その縛りを隅に追いやっている。ビートレスの曲が多く、彼女のラップもポエトリーリーディングに近い。ミキシングは各パートの音量が極端に低く、声が前面に出ている。“All Humans Too Late”など、彼女の声しか聞こえない曲もある。
 そのような本作が音楽作品として世に出るのは、音楽はサウンドがすべてという原理主義者にとって耐え難いことかもしれない。しかし筆者は、より言葉を際立たせた内容に、必然性を見いだす。ブレグジットが決まった後、賛成派の中心人物が公約は嘘であると認め、多くの国民に批判されるということがあった。世界の状況に目を向ければ、差別的なフェイクニュースやデマが至るところで飛び交っている。こうした現在に生きるひとりとして、ケイト・テンペストという表現者は、真実の言葉で対抗することを選んだのではないか。そう考える筆者にとって、『The Book Of Traps And Lessons』は素晴らしいアルバムであり、社会の中で脈を打つ生きた音楽なのだ。



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