才気のどつきあいが火花を散らす 〜 映画『ディストラクション・ベイビーズ』〜



 真利子哲也監督の最新作、『ディストラクション・ベイビーズ』はとても興味深い作品だ。この映画は柳楽優弥演じる泰良を中心に、“暴力”とそれに巻きこまれる人々を描いているが、目にした意見だけでも実にさまざまな視点があった。ある者は作品が漂わせる妖気に魅せられ、ある者は暴力構造に批判的な姿勢がハッキリ見られないことに不満を抱く。文字通り賛否両論と言えるが、そこに筆者なりの意見を投げてみようというのが本稿の目的だ。

 まずは、良かったところを述べていく。なんといっても素晴らしいのは、柳楽優弥、菅田将暉、小松菜奈の演技だろう。3人が車で夜の道を走りぬけるシーンでは、妖々と立ちこめるそれぞれの才気がどつきあいをしているかのような錯覚に襲われる。こうした空気を克明に記録した真利子監督の手腕も見事だ。いま挙げた3人のなかで特筆したいのは、観ていて嫌悪感がわいてくるほどのゲス野郎・裕也を演じきった菅田将暉である。那奈を演じる小松菜奈との揉みあいでは、裕也が持つミソジニー(女性嫌悪)的側面を冷徹に表現してみせた。

 小松菜奈も、迫力に満ちた姿を見せてくれた。「クソ」「死ね」といった言葉と共に裕也を車のドアで殴打しつづける姿に、不謹慎ながらもゾクゾクしてしまった。このような結果になった原因は、裕也がたびたび那奈に暴力をふるったことにあるのは間違いないが、それまで我慢を強いられたことで蓄積していたストレスを爆発させた那奈の表情には、小松菜奈という役者の才能と狂気が凝縮されていた。人はあんなにも変貌できるのかと感嘆したことを、いまでもよく覚えている。

 一方で、どうしてもダメだったところ。それは先述したミソジニーである。この側面がもろに表れているのは、那奈の描き方だ。暴力の描写が多い『ディストラクション・ベイビーズ』だが、そのなかでも女性に対する暴力のシーンだけ、執拗に暴力がふるわれているように見えた。特に、車の中で祐也が那奈を殴りつづけるシーンは、あまりの執拗さに吐き気がしたほどだ。このシーンの後しばらくして、筆者の隣にいた女性が嫌悪感むき出しの表情を浮かべて途中退場し、そのまま帰ってこなかった気持ちもわからなくはない。というか、筆者は少なくないシンパシーを抱いた。なぜ、女性に対する暴力だけ執拗さを際立たせる演出にしたのか?その理由は不明だが、筆者には裕也という男を通して、真利子監督に潜むミソジニー的側面が表れているように思えた。

 同時に、那奈をどう捉えるかは、観客の価値観や意識がそのまま表れるところだと思う。例を挙げると、病院で那奈が警察にとある事件の経緯を説明するシーン。そこで那奈は、警察に嘘の説明をするのだが、その説明を終えたときの表情が“してやったり”という気持ちを滲ませているように見えるのだ。そんな表情を見て、“女は怖い”とか、“だから女は何をするかわからない”といった感想を抱く者もいるだろう。しかし一方で、泰良と祐也の凶行に那奈が巻きこまれるまでのことをふまえると、那奈のふるまいに痛快さを見いだすこともできるはずだ。裕也を殴打するなかで吐いた「仲間なんかじゃない」という言葉も、那奈の暴力がそうせざるをえない状況だったから生じたものだと考えれば、一理あるだろう。

 そのうえで言うと、筆者は那奈のふるまいを見て痛快だと感じたし、那奈の暴力は泰良や祐也のそれとは異なるものだと思っている。そもそも、那奈は能動的に暴力をふるうわけではなく、自己防衛的に暴力を“ふるってしまった”のだ。それなのに、劇中では“泰良/祐也の暴力”と“那奈の暴力”は、さながら同質なもののように描かれている。そこに先述の執拗さが加わるのだから、真利子監督のミソジニーが表れていると指摘されてもしょうがないだろう。

 そして、“暴力とは?”に対する真利子監督の答えも、筆者は批判的に見ている。終盤に登場する、祭りの様子を不気味なまなざしで見つめる泰良の弟・将太(村上虹郎)と、これまた鋭い眼光を放つ泰良が佇むシーンから察するに、おそらく真利子監督は“この世から暴力はなくならない”という答えを導きだしたのだと思う。そう考えると『ディストラクション・ベイビーズ』は、真利子監督なりの答えを明確に示してはいる。だが、この答えはほとんどの人にとって自明であり、いまさらドヤ顔で言うことでもない。むしろここ最近は、それを承知のうえで暴力とどう向きあうか?という作品が増えている。

 たとえば、スサンネ・ビア監督の『未来を生きる君たちへ』。2010年に公開されたこの映画は、さまざまな形の暴力について深い考察を展開している。それは登場人物のひとり、アントンを見てもわかるはずだ。アフリカの難民キャンプに従事する医師のアントンは、暴力に暴力で返すことのむなしさを訴え、子供たちの前で殴られてもやり返さない、非暴力を貫く男だ。だがある日アントンは、妊婦を切り裂くなど数多くの非道で知られる極悪人ビッグマンを、一度は治療したにも関わらず、難民キャンプから追いだしてしまう。あまりに下劣なビッグマンの言葉がそうさせたのだ。しかし、追いだされたあとビッグマンは、彼に恨みを抱く者たちからリンチされてしまう。この事件を受けてアントンは深く傷つくのだった。

 こうした“暴力”をめぐる複雑さに、『未来を生きる君たちへ』は真摯に向きあっている。他には、ネットフリックスで配信中のドラマ『センス8』(※1)や『オレンジ・イズ・ニュー・ブラック』(※2)なども、その真摯さをうかがわせる作品だ。この2作品は性や多様性も深く掘りさげているが、それに伴う形で“暴力”について考えさせられる。“暴力”は拳などの肉体的なものだけでなく、“差別”や“偏見”といった感性の問題としても表れるのだ。そのことを深く理解できる傑作だ。

 このような作品が多く生まれている現在において、“暴力はなくならない”ということだけを示した『ディストラクション・ベイビーズ』は、周回遅れがすぎると思う。そしてこれは、真利子監督の表現者としての愚鈍さを示すものでもある。カナダのジャスティン・トルドー首相ではないが、「いまは2016年だから」と言いたくなってしまう(※3)。

 筆者はツイッターで、〈『ディストラクション・ベイビーズ』は、この先の映画界を担うであろう才気がどつきあう怪作です〉と書いた。この際に言っておくと、これは劇中で役者陣が見せてくれた才気に向けたものだ。しかし、ここまで書いてきたように、作品の根底に流れるメッセージと意識には共感できない。もっと言えば、「何をいまさら」と感じている。




※1 : 『センス8』はリアルサウンド映画部でレヴューを書いています。http://realsound.jp/movie/2015/12/post-575.html

※2 : 『オレンジ・イズ・ニュー・ブラック』はリアルサウンド映画部でレヴューを書いています。http://realsound.jp/movie/2015/12/post-642.html

※3 : 2015年11月4日、新内閣発足会見にて、男女同数で多才な顔ぶれになったのはなぜか?訊かれたジャスティン・トルドーは、「2015年だからね(Because it's 2015)」と答えた。この模様はCBCのサイトで見られる。http://www.cbc.ca/news/politics/canada-trudeau-liberal-government-cabinet-1.3304590

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